UNキャンプ

 彼らは知り合いから教えられたタイ側の難民キャンプを目指した。違法な国境越えには、昔から手配師と運び屋がいる。彼らが難民志願者を集め、金を取り、そしてタイ側へ運ぶ。難民キャンプまで連れて行くのではなく、かなり手前で下ろし、難民たちに汗をかかせる。

 ただの比喩ではなく、国境を越えた後の山越えの最中に熱帯性マラリアに冒されて命を落とす者は少なくない。また、強盗に豹変して身ぐるみはがす運び屋や、若い女性を売り飛ばす手配師もいる。

 幸いにも彼らは無事に越境し、厳しい山越えをすることなく、タイ側へ着いたという。その先にあったのは、タイの内務省が承認する「UNキャンプ」(国連難民高等弁務官事務所/UNHCRが管理する難民キャンプ)ではなく、ある「人道支援団体」が独自に運営する、いわば私設の難民キャンプだった。

「難民キャンプには、病院や学校がありました。私が事情を説明すると、イギリス人は妻を無料で病院へ入れてくれました。私は農作業を手伝う日払いの仕事を見つけ、キャンプの外でクロエと一緒に暮らすことにしました」

 暮らすといっても、どこで暮らしたのか。

「農作業を手伝っている間は、雇い主が持っている雑居小屋で寝起きできます。収入は一日、100バーツ(約350円)でした。しばらくすると、イギリス人が『クロエを学校に通わせることができる』と言いました」

 学校に通わせることができる。それ自体は悪くない。

「クロエを〈教会の寮〉へ入れれば、生活費はかからないし、学校へも行ける」

 イギリス人はそう言ったらしい。世界各地に人員と資金を送り込み、難民支援に邁進するこの「人道支援団体」は、キリスト教プロテスタントの中で、どちらかといえば異端と目される教団を母体としていた。

 そして、この教団の教義は、クロエの家族がこれまで身に着けてきた信仰の様式とはずいぶん異なっていた。しかし、クロエを無料で養ってもらうためには、彼女を教団の寮に入れなければならない。そんなわけで9歳のクロエは宗旨替えを求められ、教団の信者になった。
それから4年を過ごす中で、クロエは別の団体の〈イギリス人〉と知り合った。教団から逃げて、現在も暮らす〈イギリス人の組織〉が支配する共同体に入ったが、実際には、そこもまた別の宗教団体が母体となった場所なのであった。

〈000〉か〈0〉

 クロエは、ミャンマーで生まれたカレン族だが、法の上での立場は「無国籍者」である。ミャンマーでは新生児が生まれたとき、両親が「家族構成一覧表」を更新し、子供の名前を登記することになっている。これが国籍証明のようなものだ。

 しかし、この時点では、一覧表の真ん中に設けられた「国民登録IDのナンバー」が空欄になっているので、厳密には国籍証明ではない。家族構成一覧表に名前が記載されている者は、10歳になると「国民登録ID」を作ることができる。これが、いわゆる「国籍証明」となる。

 家族構成一覧表には本人写真が付属しないが、国民登録IDには正面写真、指紋、申請時の身長、面相の特徴などが記載される。このピンク色のIDがなければ、彼らはミャンマー国内でさえ自由に移動できず、パスポートも申請できない【*】。

 クロエは家族構成一覧表に名前が載っていないため、国民登録IDが作れず、無国籍状態のまま国境を越えて、タイへやってきた。
タイには、不法滞在者に一時的な居住を許可する複数のIDが存在する。中でも、皆が欲しがるのは、13桁の番号の頭が〈00〉から始まるID。これはミャンマーやカンボジアから〈不法にタイへ入国した者〉に、タイ国内での労働を認めるカードである。といっても、無条件で労働が認められるわけではない。このカードを持つ者に許されるのは、〈労働許可証〉の申請だけだ。

〈00〉のカードを持ち、さらに〈労働許可証〉を得た〈不法滞在者〉は、タイ全土ではなく、勤め先の会社が存在する地域の一部にかぎって、移動の自由が認められる。だが、このカードを取得するには、前提として、自分がミャンマー人やカンボジア人であることを証明しなければならないので、パスポートはおろか〈家族構成一覧表〉も〈国民登録ID〉もないクロエが手に入れることは難しい。彼女にも入手できる可能性のあるIDは〈000〉か、〈0〉のどちらか――。

〈000〉は、タイの内務省が承認する難民キャンプに収容されている〈ミャンマー難民〉に与えられるIDで、移動の自由は難民キャンプ内のみ、労働許可証の申請は認められない。

〈0〉は、自分が何者であるのか、そもそもどこの国家に属するのかを証明できない者のためのカードである。難民キャンプの外に出られない〈000〉よりは広い移動の自由を与えられるが、その反面、いわゆる〈難民〉ではないので、〈000〉で得られるようなうなUNHCR、国際NGO等からの支援は受けられず、労働許可証も申請できない。何もしてはならないが、生きていることは許される。〈0〉は、ただそれだけのカードだ。難民キャンプから逃げ出した〈元難民〉の不法就労者や彼らの子供、宗教団体の施設で暮らす子供らの一部は、この〈0〉のカードを持っている。

【*】建前上、パスポートの申請は、ピンクのID以外に〈出生証明書〉を提出すれば可
能だとされているが、〈出生証明書〉を発行できるのは、都市部の特定病院に限られているため、ほとんどが自宅出産である貧困層の者が、証明書を入手することは困難である。

Vol.4に続く

Project Logic+山本春樹

(Project Logic)全国紙記者、フリージャーナリスト、公益法人に携わる者らで構成された特別取材班。(山本春樹)新潟県生。外務省職員として在ソビエト連邦日本大使館、在レニングラード(現サンプトペテルブルク)日本総領事館、在ボストン日本総領事館、在カザフスタン日本大使館、在イエメン日本大使館、在デンバー日本総領事館、在アラブ首長国連邦日本大使館に勤務。現在は、房総半島の里山で暮らす。