本物だが、偽物
時間をいくらか巻き戻す――取材班がクロエを追ってミャンマーに入る前、タイで〈イギリス人の組織〉のメンバーたちと今回の計画について話し合っていたときのことだ。
「このカードじゃ、危ないですね」
運び屋とともにバイクで国境を越え、さんざ苦労して手に入れたピンク色のIDを見るなり、ビルマ族の協力者は溜息をついた。約4カ月前、篤志家の援助を得た〈イギリス人の組織〉が運び屋を用意し、クロエに本物だが偽物の「国民登録IDカード」を取得させたのだった。
本物だが、偽物のIDカード――。
このIDを発行したのは、とある地域の本物の役所である。使われているピンク色の紙も本物だし、貼られているクロエの写真も、IDを発行する役所で撮影され、指紋もその場で捺した。
IDには〈家族構成一覧表〉に記録されている生年月日や民族の名前(カレン族)、宗教(キリスト教)、身体的特徴(左目の下にホクロ)などが発行責任者の直筆で記され、署名も入っている。この紙をコーティングするプラスチックも、実際に役場で使われているものだ。
それでも、このIDが偽物なのは、カードの中に1カ所だけ、後から記入した欄があるからだった。さっと眺めただけでは気づかなかったが、ビルマ族の協力者の指摘を受けて、まじまじと見つめると分かった。同じペンで書かれていても、その欄だけほんのわずかに筆跡が違うように思われる。
「政府は〈国民登録IDカード〉を推進するため、最低でも年に1度、特定期間をアナウンスし、その期間中にかぎっては、実質的に登録審査を緩めるキャンペーンをおこなっています。ここに書き込まれているのは、今年のその期間ですが、実際にはこの時期にIDを申請したわけではありませんよね?」
まさに指摘通り、クロエが密入国して役場へ行ったのは、その期間より前のことだった。顔を真っ赤にして、押し黙ってしまったクロエを見て、〈イギリス人〉が事情を説明した。
「彼女には戸籍さえなかった。だから10カ月前、産みの親の村へ行って〈家族構成一覧表〉を回収し、地元の役人に金を払って、彼女の名前を入れた。でも、ピンクのIDまで同じルートで頼むと危ない。だから別のルートを使って、IDを出してくれる役場を探したんだ」
ピンクの紙
だが、新たなルートで見つかった別の役場の責任者は、狡猾な人物だった。賄賂で本物のIDを出すのではなく、ことが露見した場合の保険として、画竜点睛を欠く方法を要求したのである。
ごく簡単に説明すると、このIDに署名をした〈責任者〉は、平時における〈本来の責任者〉ではない。この特定期間中に限り、別の用向きで〈本来の責任者〉が役所を空けねばならないときにのみ、一時的にIDを承認する権限を得るレベルの役人だった。
〈イギリス人〉たちはまったく別の時期に、この役人に金を積み、クロエのIDを作らせた。しかし、役人はクロエに発行したIDの不正が露見した場合に言い逃れするため、自分でIDに記入しなければならない〈発行日〉を空欄のままクロエに渡し、特定期間の日付を、後から自分で書き入れるよう指示したのである。クロエは、ピンクの紙とパンチするためのプラスチック、それに記入用のペンを持って、また夜中に国境を越えて運び屋とともにタイ側へ戻った。
〈イギリス人〉は手先の器用な仲間に頼み、役人の筆跡をまねて特定期間の日付を書き入れ、プラスチックでパンチした。
「国境の検問や、警察に抜き打ちで声を掛けられたときぐらいなら、このカードで大丈夫です。ただ旅券申請となると……」
クロエのIDはほとんど本物だが、実際には、役所の原本に登録されていない可能性があると、ビルマ族の協力者が言った。
「ダウェイの役所に強いコネクションはありますか? 原本の問い合わせがきたら、おそらく、IDを出した役人は『それは偽造IDの疑いがある(自分は知らないし、原本にも登録されていない)』と言いますよ。そうなると、クロエは拘束されるかもしれないし、皆さんの活動にも悪影響が生じかねません」
〈イギリス人〉は、ダウェイの役所の知り合いについて関係性を説明したが、協力者にはあまり信じられない様子だった。傍で聞いていた僕にも、その知り合いがリスクを冒してまで協力してくれるとは思えなかった。
「かなり移動しなければなりませんが、ヤンゴンまで来てもらえれば、それなりに強いコネクションが使えます。ただ、それでも賄賂は必須です」
協力者が提示した賄賂の額は、40万チャット(約3万円)。日本人からすれば、大した金額ではないが、ミャンマー人の平均的な月収は1万円前後である。だが、この問題は同席していた〈イギリス人〉の仲間が負担することで、すぐに解決した。それでも〈イギリス人〉は、クロエをヤンゴンに行かせることを最後まで渋った。取材班はその理由に心当たりがあった。