アンナ
一昨年、クロエと同じように〈イギリス人の組織〉が支配する共同体で暮らしていた女性、アンナが今回とは別の協力者を使って、パスポートの取得を計画した。その際、ミャンマー国内で頼んだ運び屋の質が悪く、彼女はヤンゴンの郊外で所持品を奪われ、水田の脇に置き去りにされてしまった。翌日、途方に暮れていた彼女を助けたのは、カレン族の若い男だった。男は果物をヤンゴンへ運搬する仕事をしていたという。
彼は、アンナを自宅へ連れ帰り、ふたりは一緒に暮らし始めた。タムヒンキャンプで生まれ育ち、11歳で脱走した後は、〈イギリス人の組織〉のもとにいたので、彼女はひとりで眠りについたことがない。
起きている間も、便所以外では、1度もひとりきりになったことがない、という言い方もできるかもしれない。アンナは処女だった。男と暮らし始めると、すぐに妊娠した。腹が大きくなって、彼女が性交を拒むようになると、カレン族の男は小銭を持たせて、アンナを追い出した。
「『彼女は来なかった』と運び屋は言うし、あの日から半年以上も音沙汰がなかったから、強盗かミャンマー軍に殺されたと思っていた。そうしたら、知らない番号から急に電話がかかってきて、すぐに迎えを出した。信頼できる運び屋を使ったから、また金がかかって大変だったよ」〈イギリス人〉
こうして、アンナはまた国境を越えて共同体へ戻り、今は赤ん坊とともに暮らしている。そんな事情があったので、〈イギリス人〉は、クロエをひとりでヤンゴンへ行かせることに難色を示したのだった。しかし、これもすぐに解決した。
いただきます
クロエと一緒に国境を超えるのではなく、取材班がバンコクから空路でヤンゴンに入り――信頼できる運転手と一緒にダウェイに向かい――ヤンゴンまで、クロエを連れてゆく。その経費は取材班が負担するということで、〈イギリス人の組織〉や協力者たちの了解を得た。すると、クロエが声を挙げた。
「もし許してもらえるなら、祖父を同行させてもらえないでしょうか? 私と同じように、祖父はこれまで1度もヤンゴンへ行ったことがないのです」
取材班は承諾した。祖父がいることで、彼女の不安もすこしは和らぐだろうと思うより先に、祖父やクロエを1度は捨てた産みの親が暮らす村を訪れられることのほうに、好奇心がくすぐられたからだ。
そんなわけで、取材班とクロエは別々に国境を越え、ダウェイで落ち合った。祖父のタンアウンもやってきた。そしてクロエの生まれた村へ向かい、両親や親戚に会い、〈家族構成一覧表〉を受け取り、一晩世話になってからヤンゴンへ向かった。
とっぷりと夜も更けた頃、ヤンゴン市内のビルマ族の協力者の家に着くと、温かい夕食と寝間着、そしてベッドがふたりを待っていた。改めて書くまでもないかもしれないが、世界の多くの人々は、食事の瞬間に「いただきます」と唱和する文化を持たない。ただし、宗教的な理由で祈りを捧げる人々は存在する。
普段、〈イギリス人の組織〉が支配する共同体の夕食は、白米と野菜を中心にした一品のおかずだけだ。今晩は違う。大量の揚げ物から鶏肉のカレー、魚のスープまでテーブルを埋め尽くさんばかりの量が並んでいる。
「いただきます」
食事のたびに取材班がとる行動を気に入っていたらしいビルマ族の協力者は、自分の子供に真似をさせた。皆が笑いながら食事を始める。クロエもタンアウンも、次から次へおかずを白米の上に載せ、じつに美味そうに口へ運んでいた。
その様子を眺めている最中に思い出した。食事の前、〈イギリス人の組織〉の者たちはかならず、「唯一神」に祈りを捧げる。だが昨日の早朝、ダウェイで落ち合ってから、何度食事をしても、クロエは祈っていなかった。