欧米流のやり方
KNLAの駐屯地と同じように、まだ十代に見える若者が、緊張の面持ちで茶菓子を運んできた。
「その一方だ。兵卒の仏教徒たちが、彼らの敬愛するお坊さんを呼びたいと願ったとき、あるいは仏教徒の支援団体から協力を得るために動いたとき、KNLAの上層部は明らかに冷淡だった。だが、口では言うんだ、これぞ欧米流のやり方だな。『宗教的な問題じゃない。ミャンマー軍に通じているスパイが紛れ込んでいるかもしれないから、精査するための時間をくれ』と……」
だが、ミャインジーグー僧正には、その「お為ごかし」が通用しなかったという。なぜなら、僧正はKNLA上がりの仏教指導者だったからである。僧正は、タイとミャンマーの国境沿いに次々と仏塔を建て、これまでキリスト教系の国際NGOに取り込まれがちだったカレン難民の受け皿として、仏教徒のカレン族のためのキャンプを設置した。それらの活動と比例するように、KNLA上層部による「欧米流のやり方」を使った圧力も強まっていったという。
一般に、ミャインジーグー僧正を象徴としたDKBA(カレン仏教徒軍)が組織された直接のきっかけは、僧正が各地のKNLA駐屯地の付近に仏塔の建立を始めたことだといわれる。
自分たちの教会
「長期的に見れば、それだけが原因ではないと分かってもらえるはずだが……直接のきっかけはそうだ。僧正がマナプロウに仏塔を建立したとき、KNLAの指導部は『白く塗るのは、セキュリティ上の懸念がある。仏塔は目立つので、ミャンマー軍に、我々の居場所を教えることになってしまう。だから、色を白く塗るのをやめるか、仏塔自体を解体してくれ』と言った。
これは明らかに、カレン族の多数を占める仏教徒への侮辱だ。第一にマナプロウの駐屯地は、すでにミャンマー軍に把握されていたから、そこに仏塔を建立したからといって、何かがバレる性質のものではない。つまり、セキュリティ上の問題など、実際にはなかったんだ。彼らは、立派な仏塔が『自分たちの教会』を脅かすことを嫌い、また、自分たちを支援する欧米人のキリスト教徒たちの機嫌を窺っただけだ。
だが、それよりも、何より私たちが絶望したのは、長らくKNLAを統率し、当時もカリスマだったボーミヤ大将が指導部に対して何の打開策も提案せず、ただ反対案に賛同したことだった」
ボーミヤ大将(故人/キリスト教徒)は、長らくKNLAの最高指導者として君臨したソウバウジーに次ぐカリスマとされる。
「もし、本当にKNLA指導部が仏教徒のカレン族に対して敬意をもっていたなら、ボーミヤにはいくらでも他のやり方があった。たとえば、問題視された場所の仏塔建立を取りやめる代わりに、別の大事な場所、KNLAにとっての大事な場所での建立を約束するとか。あるいは、キリスト教の従軍牧師に与えていた階級と並び立つように、還俗したお坊さんを従軍僧侶として扱うとか……彼らはミャインジーグー僧正が兵士にお守りを与えることにも好意的ではなかった。そんな状況のなかで、私たちはKNLA指導部の一部が『僧正を暗殺しようとしている』との情報を得た」
取材班も、その「噂」だけは何度も耳にしたが、いったい当時の指導部の誰が画策し、どんな計画で暗殺がおこなわれることになっていたのか。具体的な話は一度も聞いたことがなかった。それどころか、KNLAに批判的なビルマ族のジャーナリストでさえ、「あれは、ミャンマー軍情報部のディス・インフォメーション(敵を欺くための偽情報)だった」と言うのである。
証拠
だが、それらの一般的な見解を伝えると、将校は饒舌な物言いから一転し、言葉を選ぶように、ゆっくりと言った。
「暗殺計画の確たる証拠はある。我々はその証拠を持っているが、いまDKBAとKNLAは協調関係にあるので、それについては明かせない。ただ、当時のKNLA内部で、キリスト教徒と仏教徒を原因とするトラブルが各地で起こって、何人もの死者が出ていたことは疑いようのない事実だ。一度や二度やじゃない。
そして、仏塔をめぐって我々の我慢が限界に達したとき、ミャンマー軍と軍政権、キンニュンのルートから『我々は、仏教徒のカレン族に敬意を払いたい』という旨の接触があったのも事実だ。それでも勘違いしてほしくないのは、政府からそんな話がやってきたからDKBAが生まれたのではないということだ。いいか、前後関係を勘違いしないでほしい。なぜ、DKBAが生まれたのか? 大事なのは、DKBAを生み出したKNLAとその後援者たちの〈侵略的な土壌〉を理解することだ」
しかしそのような状況であっても、彼自身はKNLAから離反しなかった。1994年の12月、ミャインジーグー僧正を旗印にしたDKBA(カレン仏教徒軍)と名乗るカレン族の勢力はKNLAから分裂し、ミャンマー軍とともにKNLAの本拠地マナプロウを攻撃。
この作戦では、これまでKNLAを支えてきた多数の民間人のカレン族(仏教徒)もDKBA側につき、難攻不落とされていたマナプロウはわずか1カ月の戦闘で陥落、続いて要衝ワンカーも落ちた。このとき、日本人義勇兵の〈西山/西岡〉と高部はワンカーを空けていたが、彼らの仲間である日本人義勇兵が戦死している。