タコラン村
DKBAの取材は後味の良いものではなかったが、丸2日かけてヤンゴンに戻ると、破顔したクロエが待っていた。その手には、パスポートの引換証。彼女はついに「国民」になったのだ。あの村で生まれたときからどんな国家にも属していなかった彼女は、ミャンマーを捨てるためだけに「ミャンマー人」になった。
その日、ビルマ族の協力者の家でお祝いの宴が開かれた。取材班は痛飲したが、仏教徒のビルマ族とキリスト教徒のカレン族、〈イギリス人の組織〉のメンバーたちのほとんどは、酒を飲まなかった。
「現物を受け取るまで、あと4日。どこかその間に行きたい場所はあるかい?」
取材班のひとりが尋ねた。パスポートを受け取った後、クロエは〈イギリス人たちの組織〉が主催する、約半年間に及ぶ研修プログラムに参加せねばならないため、自由を満喫できるのは、パスポートの現物を受け取るまで。明日からの3日間だけだ。
「タコラン村で暮らしている友達に会いたい」
クロエは言ったが、宴にいた者は誰ひとりとしてその村を知らなかった。しかし、クロエの手帳には正確な住所がメモされていた。その住所によれば、タコラン村はミャンマーではなく、タイ側に存在しているようだった。バンコクの郊外である。
「タイ側の集落なら問題ない。パスポートを受け取ったら、施設に帰る前に寄ろう」
〈イギリス人の組織〉のメンバーが言った。
賛成できない
まだ少女だったクロエがミャンマーからタイへ密入国したとき、その最初の難民キャンプで一緒だった友達のペペは難民キャンプを脱走した後、タコラン村で暮らしているのだという。
こんなとき、スマートフォンは本当に便利だ。無事にパスポートを受け取った我々は2台のワンボックスカーを手配し、タイへ戻った。市街地を抜け、農村地帯を走り、その場所を見つけた。小さな施設、まるで〈イギリス人の組織〉の共同体を思わせるコミューン。だが、入り口に書かれた言葉を見るなり、〈イギリス人の組織〉のメンバーが叫んだ。
「ダメだ、入るな。そっちへ行け」
ワンボックスカーは入口を通り過ぎ、舗装されていない農道に進んで止まった。クロエの表情が引きつっている。〈イギリス人の組織〉のメンバーは取材班に目配せし、車を降りるよう促した。
「ここは危ない」
その理由は、コミューンの入口に掲げられた紋章にあった。どうやら、ペペは〈イギリス人の組織〉が奉じるキリスト教の一派とはまた違う、アメリカ生まれの特殊な福音派の教団が支配するコミューンで世話になっているようだった。
「クロエをこのコミューンの中に連れて行くのには賛成できない」
〈イギリス人の組織〉のひとりが言った。
「でも、クロエはペペに会うのをとても楽しみにしている様子だった。たとえば、我々が中に入り、責任者に話をつけて、ペペを農道まで連れてくるというのはどうだろうか」
取材班のひとりが提案すると「我々も入らないが、あなたがたがそうしたいなら止めない」と言われたので、我々はコミューンに足を踏み入れることにした。その数分後、私たちは驚くべき人物と出会うことになる。
なんだい、日本人かい
コミューンは傾斜地に造成されており、入口の門はもっとも低い場所にある。取材班が足を踏み入れると、右斜め上に大きな平屋が建っている。視線を前に戻すと、広い中庭の先には立派な教会。
「ハロー!」
平屋の中から小学3、4年生程度に見える子供たちが手を振っている。
「おう、なんだい、日本人かい」
と、いきなり野太い日本語が響き、取材班は驚いた。見れば、右手に大きな木ベラを持った男。短く刈られた白い髪、小柄だが、一見して分かる太い首、腕周り。
だが、その数秒後、取材班はさらに驚いた。その日本人の足元から、「両手」にサンダルをはめて、腕と膝で歩く男が姿を現したからだ。ビレイ牧師と本間学――さらに、その1分後に姿を見せたのが、後に本稿の共同執筆者となる元外交官の山本春樹だった。