オリジナル・モッズ
初期のモッズが、はじめに心を奪われたのは、モッズコートでも細身のスーツでもない。いくつかの文献でも確認できるが、2016年、モッズメーデーのために来日したミュージシャン、モーガン・フィッシャー(Morgan Fisher)から直接聞いた。オリジナル・ モッズシーンを経験してきた彼が断言する通り、やはり、はじめはフレッドペリーのポロシャツなのである。
ウィンブルドンを勝ち取ったテニスプレイヤー、フレデリック・ジョン・ペリー(Frederick John Perry)が作り出したポロシャツは、モッズシーン黎明期、それ以降もカジュアル派の人々、クラブシーンなどで愛された。
ビジュアル的な理由としては、タイトなシルエットであったことが大きな要因であるが、機能面においても、夜な夜なクラブで踊り続けたモッズにとって、鹿の子素材で作られたポロシャツは、伸縮性が優れているにも関わらず、目が詰まっていたため型崩れしづらく、また、生地の程よい凹凸感によって通気性も持ち合わせていたため、クールをキープしたままダンス(体を動かすという意味でのスポーツ)に明け暮れるための最良のアイテムであった。
この、モッズによるポロシャツの〈ファッション化〉は、テニスをはじめとするスポーツ以外の意味が付随した大きな転換点であった。
数分前の〈最新〉
モッズは、ある時ある場所ではモッズコートを身につけていた――彼らが街を自由自在に移動するための足として使っていたヴェスパなどのスクーターに乗る際、スーツやポロシャツが汚れないためのオーバーコートとしての利用から広まったとされている――が、またある時はフレッドペリーのポロシャツを着ていた。
そして例えば、ポロシャツの着方についても、襟を立てたり、ボタンを留める数など、無数の仔細なバリエーションによって、〈最新〉か否かが問われた。そのモッズの争いがわかる際たる例が、時が経つごとにエスカレートしたスクーターのカスタムだろう。ライトがいくつも取り付けられたヴェスパやランブレッタなどは、このモッズの〈最新〉を競う精神性が、細かなディテールへ反映された、異常なまでの執着の産物だった。
常に〈最新〉でなければならないモッズにとって、定まったスタイルが決まりきっているはずもなく、モッズコートもポロシャツも、どちらもモダンでクールを示すためのひとつのアイテムとして愛用されていたのである。
毎週金曜日に放送されていたテレビ番組『レディ・ステディ・ゴー』において、映し出されたスタイルが〈最新〉となった瞬間に、それより数分前の〈最新〉は、たちまち古くイナタイものへと様変わりした、というエピソードが語り継がれているほど、そのスタイルの変遷は目まぐるしかったとされている。しかし、それでも〈スタイル〉とは、最終的には〈他を捨て、特別な何かを選んで決めること〉だ。
フレッドペリー
モッズによって取り入れられたポロシャツは、テニスシーンからユースカルチャーへと拡大した大きなムーブメントだった。中でもフレッドペリーのポロシャツが、これほどまでに愛されたのは、フレデリック・ジョン・ペリーの出自が関係しているのではないかと、個人的には推測している。
当時、貴族のスポーツであったテニス界において、紡績業を営む労働者階級出身でありながらグランドスラムを達成するなど栄光を勝ち取り、さらには、自身が生み出したポロシャツが、イギリスでは夏の社交界最大のイベントだったウィンブルトンのシンボルである月桂樹を用いることを許されことになった。そこには上流階級のお墨付きまで窺える。この経緯こそが、同じ階級出身のユースたちの何かしらの感情を突き動かしたのではないか。しかし残念ながら、今日現在まで、この説を実証できるだけの十分な証言は得られていないのだが。
いずれにせよ、モッズから派生したスキンヘッズ(60年代中期~)をはじめ、パンク(70年代後期)、ネオモッズ(70年代後期)、カジュアルズ(70年代後期から90年代前半)、2トーンスカ(80年代)など、各時代のユースカルチャーのアイコニックな存在として、フレッドペリーのポロシャツは愛され続け、現在にいたる。
ユースカルチャーは、前時代のスタイルや精神性を否定することで新たな文化として生まれるものだが、この50年代に生まれたフレッドペリーのポロシャツだけは、なぜかどの時代、カルチャーにおいてもアイコニックなアイテムとして愛された稀有な存在だった。
だが、ポロシャツの栄光をローレルだけに与えては、あのワニが黙っていない。