瞑想の間
師範会での出会いから数日後、山本は日本館総本部を訪ねた。
その施設は4000坪余の敷地の中に160畳敷の合気道道場、120席の日本田舎風レストラン、広い本格的日本庭園そして日本伝統民具展示室があった。本部事務所には受付と経理・総務スタッフが執務する15畳程度のスペースと、その奥に館長室があった。館長室と言っても4畳半ほどの狭い部屋である。事務机と3人掛ソファが置かれているその部屋には、足の踏み場もないほどのチベット仏教の仏具が無造作に置かれ、壁にはチベット仏教の曼荼羅や仏像が飾られている。
「クローゼットに押し込んでおくわけにもいかないし、いつの間にかこうなってしまってね。これじゃ怪しげな宗教団体と誤解されても仕方がないね。弟子達は『瞑想の間』なんて言っています」
けれど、その瞑想の間の主は、くたびれた地味なジャージ姿でサンダルをペタペタ鳴らして歩く、どこから見ても中年のただのおじさんなのだ。
最高の家具
本間は、その部屋のソファを寝床として毎日を送っていると言った。山本が部屋の一角に置かれた長方形の木箱に目を留めると、秋田訛りの言葉で話し始める。
「世界で一番使い勝手の良い家具は棺桶ですね。気の利いた布をかければ長椅子になるし、中は収納スペース。またテーブルカバーをかければゆとりの4人用テーブルです。
地震がきたら中に避難できるし、寒い時は毛布を多めに入れて蓋をし、中で寝ればいい。いよいよダメかと思ったら白いものを着て中に入り、お迎えが来るのを待てばいい」
そんな事を秋田訛りの言葉で楽しそうに話すのである。
山本は一種異様な雰囲気を醸し出す、その「瞑想の間」に通い詰め、驚くべき本間の人生を聞き取った。その記録の一部を紐解いていこう。
合気道開祖の最後の内弟子
「茨城の岩間というところに開祖の道場があってね、そこに私は17歳の時に高校を辞めて押し掛け、弟子入りさせてもらったのよ」
ある夜、本間学は遠い昔を思い起こすように語り始めた。それは3月のまだ肌寒い夜だった。うら寂しい秋田発の夜行列車に乗った学少年は、列車を乗り継ぎ、翌日昼過ぎに岩間駅に降り立ったという。
駅から道場までは約1kmの道程である。秋田に比べれば茨城の春は早い。道端には可憐な白い花を咲かせた梅の木があった。だが、学にはその早春の花は目に映らなかった。
親父が畏敬の念を抱く、合気道の開祖とはどんな人物なのか――そんな不安な思いが少年の心を支配していた。学は父から預かった大事な紹介状を、胸に抱きしめる思いで歩いていた。
終戦間近の昭和17年、59歳の頃に岩間に家を構えた植芝盛平は、82歳になっていた。妻はつと共に岩間に移住し、合気神社および修練道場を建設。周辺を開墾して農場とし、同地を「合気苑」と名付け、かねてより念願であった「武農一如」の生活を送っていた。
しばらく歩くと、地図が示すその場所へ着いた。道場で兄弟子たちに挨拶し、母屋の客間に通された学は、正座をしてじっと植芝を待った。床の間の墨絵の掛け軸の前には、白い梅の小枝が活けられていた。スッと襖が開いて開祖が現れた。
「君が本間くんか」
開祖はそう言いながら着座し、腕組みをしてじっと学をみつめた。
学は、父に書いてもらった紹介状(入門願)の封書を開祖の前に差し出し、「秋田からまいりました本間学です。宜しくお願いします!」と、大きな声で言い、両手をついて頭を畳に付けた。しばらくその書状に目を通していた開祖は「そうか」と言って、白く長いあご髭を撫でながら、学を見つめた。
聞き取りをおこなうと、いつでも夜が更ける。山本はたいてい、本間に御馳走になっていた。記録によれば、この日の夕食は豆のスープ。「小腹がすきましたね。ネパールの健康スープでも食べますか」と言って、本間がレストラン・スタッフのダワに所望したものだ。麺の入ったコクのある豆スープだった。