少年期

本間学は昭和25年(1950年)、秋田の佐竹藩城跡である北の丸(現在の千秋公園)で生まれた。父親は、旧佐竹藩においてそれなりの格を与えられた名家の長男であった。戦前の本間家は満州に住んでいた。父親が軍人であったからだ。

 満州国での生活は当然のごとく裕福なものであった。当番兵が官舎に常駐し、部隊への出勤は六人の兵隊が随行し、父は馬上の人となって悠々と行った。毎朝、長兄が母に抱かれ、そして長女が女中に手を取られて馬上の父を見送る生活であったという。

 しかし、父親は第2次世界大戦の趨勢を理解していた。満州国崩壊の序章が始まったとき、インドネシアに転戦することになった父親は、家族にこう告げたそうだ。

「この戦争は負ける。早く日本に引き揚げろ」

 といっても、その言葉を聞いたのは学本人ではない。今は亡き母親だが、彼女は夫の言いつけを守り、ふたりの子供を連れて一目散に引き揚げた。生まれ故郷の秋田県に戻ったのは、関東軍が敗走する以前の事である。慧眼を持った父親はどうなったか。

インドネシアを転戦していた父親はコタラジャで捕虜となり、戦後2年ほど経った頃にやつれた姿で秋田に帰還した。

戦後

 敗戦により、本間家の生活は一変した。関東軍の重要なポストにいたため、父親は爪弾き者の扱いを受け、秋田では仕事も見つからなかった。学の上には3人の兄がいたが、長兄と次兄は満州で病死。生き残って帰った三男の兄と長女の姉は、どん底の生活を支えるため、中学校を卒業すると働きに出た。引き揚げ後に秋田で生まれた次女の姉も同様であった。

 敗戦から5年、学が生まれてから本間家の家計が潤っていた日はない。しだいに借金はかさみ、ときには木刀を持った男たちが家に押し入り、質草として箪笥から母や姉の着物を奪っていったという。悔し涙を流した学は、小学校では柔道に励み、中学生になると町の道場で合気道を習った。しかし、いくら熱心に稽古をしても、チンピラ、ヤクザを撃退するほどの実力までは程遠いのが現実だった。

 本間は待った。自分の実力と身体が練り上げられてゆくのを高校卒業まで待った。そして17歳になったとき、合気道の開祖である植芝盛平の内弟子となることを決めた。じつは、学の父親と植芝は、満洲以来の知人だったのである。敗戦以来、植芝は終の住処にするつもりだった茨城県の岩間と、東京の本部道場を行き来する生活を送っていた。その滞在の比重は次第に岩間が多くなり、学が向かった時期には、ほとんどを岩間で過ごすようになっていたのだった。

内弟子生活

 翌日から、植芝開祖の内弟子としての厳しい修業の日々が始まった。学が経験したその内弟子修業とは、まさに「滅私奉公」の世界であった。

 起床は、毎朝5時。

 まずは、敷地内にある合気神社の神殿と境内の掃除をする。

 6時になると、翁先生(弟子たちは、植芝をこう呼ぶ)が洗顔をするので、その前に洗顔用のお湯をちょいど良い湯加減にして、洗面器を準備する。先生が顔を洗う時は、後ろに待機し、手を洗面器に入れる瞬間に、先生の着物の両袖を後ろからさっと持って、水に濡れないようにする。先生が顔を洗ったらさっとタオルを差し出す。その前に、入れ歯を磨くために豚毛の歯ブラシに粗塩をつけて用意しておかなければならない。

 洗顔が終わると、先生は羽織袴に着替えて合気神社の参拝に行く。学は、3歩下がって従う。先生は鳥居の下をくぐって入るが、正装をしていない学は鳥居の外を歩かねばならない。

 社殿に上り奥殿に入ると、約30分ほど、先生は朗々と祝詞を唱える。祝詞が終わると、先生は奉納の「杖の舞」を踊る。その間、学は社殿入口付近で正座をしてじっと待つ。

 社殿参拝が終わると先生は道場に戻り、正面、左右の神々に祝詞を奏上する。その後、道場前庭にある丑寅の昆神にお参りし、最後に太陽に向かって天津祝詞を奏上する。

 朝の参拝を終えると、先生は畑で野菜の具合を点検する。摘んだ野菜の芽や、間引きしたものを学が受け取り、台所へ持って行く。開祖と一緒に食べる朝食の大事な食材とするのだ。従って、毎日の食事で学は普通に実った野菜を食べたことがなかった。開祖も同じである。実った野菜は神社の月並み祭に奉納され、直会のあとに参拝者に持たせたり、あるいは上京して本部へ行く時の手土産とした。

 翁先生と奥様(はつ)の食事は、女中の菊野と学が用意する。質素な一汁一采の食事を先生と奥様は分け合い、楽しそうに食べていた。なんとも仲むつましい姿であったという。先生の食膳に欠かさないのが黒酢と小さな杯の酒で、おかずのほとんどはそれに浸して食べる。

 主食はお粥。餅の入ったお粥が好きだったが、入れ歯に付くので後に止めた。誠に質素な食事であった。

 先生の朝食が済むと、学は畑や田んぼで野良仕事する。当時道場が所有していた田畑は3ヘクタールほどあった。田んぼでは稲も作っていた。その手入れをするのも、学と菊野のふたりであった。それが終わると、今度は昼食の準備をする。

 昼食を食べた後、先生は昼寝だ。道場の、開け放たれた大戸からの陽を受けて、腕枕で眠ることもしばしばであった。先生が寝ている時、学はその側で毛布をもって寝返りを打つのをじっと待つ。気持ち良く寝ている時に毛布を掛けると目が覚めてしまうので、タイミングを計らねばならなかった。

 昼寝の後、先生の気が向けば合気道の手ほどきをしてもらえる。午後には、来客も多い。政界や財界の著名人が来ることもあった。その大事なお客さんを案内するのも学の役目であった。

 夜、先生が寝床に入ると、学は布団の足元から手を入れて、先生の両足をマッサージした。足をマッサージすると良く眠れるのだそうである。学は先生が寝息を立てるまで、毎晩正座をしたまま彼の足を揉み続けた。正座をして前かがみでの”おみ足摩り”は大変であったが、道場での兄弟子たちの世話よりははるかに楽であったという。

Vol.18に続く

Project Logic+山本春樹

(Project Logic)全国紙記者、フリージャーナリスト、公益法人に携わる者らで構成された特別取材班。(山本春樹)新潟県生。外務省職員として在ソビエト連邦日本大使館、在レニングラード(現サンプトペテルブルク)日本総領事館、在ボストン日本総領事館、在カザフスタン日本大使館、在イエメン日本大使館、在デンバー日本総領事館、在アラブ首長国連邦日本大使館に勤務。現在は、房総半島の里山で暮らす。