岩間
岩間道場の全体稽古が始まるのは、毎晩7時からだ。通ってくる生徒は、地元農家の跡継ぎ(長男)達がほとんどであった。野良仕事やそれぞれの家業を終えてから駆けつけてくるので、長時間の稽古は行わず、1時間ほど集中してやる。開祖は高齢であったので、特別の講習会以外は道場生達を指導することはなく、師範格の高弟が稽古をつけていた。
その1時間の稽古が終わると、兄弟子達は毎晩のように酒盛りをしていた。10人近い兄弟子達が持ち寄った酒を飲み、晩飯を食べるのだ。料理は持ち寄った野菜などを入れた鍋料理で、自家製の漬物などを肴にしていた。
いかにも田舎の道場風景である。兄弟子達が道場に通ってくる目的は、合気道の稽古もさることながら、酒盛りをして憂さ晴らしをすることにあったように思われた。まだ娯楽の少ない時代のことである。エネルギーを持て余している若者達が其処此処にいた。
この酒盛りの準備と後片づけも、学がひとりでやらねばならなかった。1時間の稽古が終わって、兄弟子達が「どーれ、一杯やるか」とやってくるまでに、食事の用意も整えておく。兄弟子たちの世話は、酒盛りの後も続く。
酒盛りが終わって道場生が引き揚げた後、道場や脱衣場には兄弟子たちの稽古着が置かれている。翁先生の特別な指導があるときは参加者も多く、30着余の稽古着が残されていたときもあった。洗濯機などまだ普及していない。すべて手洗いだ。厚い稽古着を両手で絞っていると、次第に指と手の感覚がなくなってくる。冬の寒い日は手も足もかじかんで霜焼けになった。
開祖の晩年
学が岩間で内弟子となったのは、翁先生晩年の時期であった。達人である先生にも、老いに起因する認知的な症状がすこしずつ現れ始めていた。時折発作を起こすと、家人や弟子達を激しく怒鳴り飛ばすのだ。門弟達は次第に腫れ物に触るように開祖に接するようになり、遠くから恐る恐る様子を伺うという状態となった。岩間の道場を訪れる東京本部の高段師範達の足も次第に遠のいていった。
翁先生が住む岩間道場から50メートルほど離れた所に、斉藤守弘師範とその家族が住んでいた。斉藤師範は、翁先生から20年以上にわたって、直接指導を受けた愛弟子であり比類なき高弟のひとりであった。
斉藤師範夫妻は開祖に我が親の如く接し、甲斐甲斐しくお世話をしていた。開祖に怒りの発作が起きた時は、斉藤師範の奥様以外になだめられる人はおらず、夜中に発作が起きた時などは、学は幾度も真っ暗な道を這うようにして斎藤師範の家に辿り着き、助けを求めたものであった。
開祖は夜もふけた深夜に起き出して、東京の方向に向かって怒鳴り始めるときもあった。それは顔を見せなくなった高弟達の無礼を叱咤する声であった。
闘病生活
学が岩間に来て約3年が過ぎた頃、翁先生の状態がさらに悪化したため、大病院に近い東京本部道場で生活することになった。本部道場での闘病生活の世話は、主に管理人の角田さんが行い、また通いの門下生である金子さんも、わが師のためと献身的に尽くしていた。
2階の中道場で寝泊まりしていた学も、角田さんを手伝ってお世話をしたが、奥座敷で床に臥せる先生のお顔を見る機会も次第に少なくなり、また話すことも叶わなくなってきた。
翁先生の存在が次第に遠のくのを感じながら、言いようのない寂寥感を覚えながら学は本部道場で生活していた。
1969年4月26日、北国の満開の桜花が散る頃、開祖は帰らぬ人となった。享年86歳であった。本葬の朝、学はトラックに積まれた沢山の生花を抱えるようにして支えながら、本部道場から青山斎場に向かった。
葬儀には政財界の要人が多数列席し、テレビのニュース番組でも報道されたが、学の記憶に残っているのは、俳優の左朴全や巨人軍の川上監督、長島、王選手の姿であった。王選手の一本足打法は、合気会の師範のひとりが指導したのだ。
花柳界でも翁先生はもてたらしく、当時赤坂の芸者として有名であった小梅からも大きな花輪が会場に届けられた。しかしそれを見た本部役員は、大慌てでその花輪を会場外に移動させたという。このエピソードを知る者は少ない。