流浪の旅
開祖に思いを巡らせるとき、本間はたいてい物静かになる。胸の中に、アンビバレンツな感情が渦巻いているのだろうか。ある日は、こんな言葉からだった。
「開祖が亡くなられてから、私は流浪の旅に出たのよ。村の神社の床下で寝て、野犬に襲われたりね」
植芝開祖が亡くなった後、学の面倒を見てくれる人は、当時の合気会には誰もいなかった。彼を通じてそれまで開祖に取り入っていた師範や指導員、兄弟子達も手の平を返したように冷淡になった。開祖の葬儀が滞りなく終わると、学は悄然と故郷の秋田に帰った。まだ20歳になったばかりだった。
秋田へ戻った本間は、無気力症候群のような状態に陥った。合気会の秋田支部道場でしばらく居候を経験したが志を得ず、全国の道場で稽古をして回ろうと考えたのである。かつて岩間道場で植芝開祖の門下であった兄弟子達を訪ね、彼等と共に必死で生きた世界を再確認したかった。
けれど、薄汚れた稽古着袴姿で風呂敷包を担いだ本間が姿を現すと、大概の道場主は「ギョッ」とした顔をした。本間が事情を話しても、多くは門前払いだ。しかし本間を懐かしがり、歓迎してくれる兄弟子もいた。彼を道場に泊めてくれ、そして開祖の昔話などをしながらご飯を食べさせてくれた。
だがそれに甘えて長逗留はできない。どこの道場も運営が厳しく、余裕のない状況にあった。道場に泊めてもらえない時は、安宿を探して泊まっていたが、やがて宿に泊まる金も無くなった。本間は神社の床下に潜り込んで雨風をしのぎ、寝てしまうようになった。
神社は有難いものだ。日本全国津々浦々の村々にある。地域の人達はそこを神聖な場所として代々護り通している。そして神社は来る者を拒まない。
こうして本間は全国を巡り、青森の十和田湖にたどり着いた。湖畔近くの土手に腰を下ろし、ぼんやりと川の流れを眺めていた。その時、河原に形の良い流木(古木)があるのが目に留まった。あの古木を使って民宿用の木彫りの看板を作ったら面白いかもしれない。突然、そんなアイデアが浮かんだのだ。
国立公園周辺の民宿などの看板は、派手な表示が禁じられていたため、落ち着いた木彫りの看板が多かった。本間は方々を訪ね歩き、一軒の民宿の主から看板彫りの注文を取った。そして河原で古木を拾ってノミを打った。本間が魂を入れて彫った古木の看板は評判となり、その後多くの注文を受けるようになった。
十和田湖の遊覧船乗り場に取り付けられている「宿・渡し船御案内」という看板も、その時期に本間が彫ったものだ。看板の左下の隅には、「学」と彫られている。
木彫り師が掴んだ運
当時、青森県に「東北の観光王」と呼ばれる男がいた。十和田開発株式会社社長をしていた杉本行雄である。若かりし頃、渋沢財閥の渋沢栄一、渋沢敬三の書生、秘書として仕え、薫陶を受けた杉本は、青森三沢の荒涼たる広大な湿地に温泉を掘り当てて大温泉郷(古牧温泉)を造り、また十和田湖畔と奥入瀬地域の観光整備を行い、東北青森に日本有数の観光名所を作り出した。
流浪の旅を始めて1年後、本間は北の果ての十和田湖畔で、何かに導かれたかのように古木に向かって無心にノミを打っていた。その奇妙な男の噂が、東北の観光王の耳に入った。
晴れた気持ちの良い秋の日だった。古木にノミを打つ本間に声をかけた男がいた。
「すみません」と言って、背広姿の品の良い青年が本間に名刺を差し出した。《十和田開発株式会社 専務 杉本正行》。
「あなたのお噂は旅館の親爺さん達から伺っています。うちの社長が是非あなたにお会いしたいと言っております。もし宜しかったら、弊社までお越し頂けませんか」
面会した杉本社長は本間をいたく気に入り、警備業務責任者として本間を雇うことを決めた。警備業務責任者とは、ようするにボディガードである。当時、杉本社長は果敢に事業を展開していたが、それ故に敵も多かった。彼の成功を妬む輩もいた。同業他社の連中からは執拗な嫌がらせもあった。全国組織の暴力団も甘い汁を吸おうと近づいてきた。昔の観光事業にはヤクザはつきもの。油断したら寝首をかかれるのだ。
杉本社長が東京の渋沢財閥から青森の三沢に派遣されたそもそもの理由は、渋沢財閥が当時三沢近辺に所有していた広大な山林を利用して、建築用資材を製材して販売を行うことであった。米軍三沢基地への大量の建築用資材調達も一手に引き受けていた。
この製材販売事業により杉本はかなりの利益を上げていたのであるが、彼はもっと大きな面白い仕事がしたかった。そして十和田観光電鉄の経営を手始めに、青森の観光開発事業を展開することにしたのであった。
本間青年は、今度はそんな男に師事し薫陶を受けることになった。「捨てる神あれば、拾う神あり」ということか。