ションベン横町
本間は杉本社長が新たに始めた小川原民族博物館の開設業務のため、小川原湖がある三沢へたびたび出張することになった。三沢といえば米国空軍基地があることで有名だが、その基地周辺には小さな飲み屋が軒を並べる歓楽街があった。
本間は昼間の仕事が終わると、その歓楽街に行ってみた。一番大きな“中塩通り”を歩いて行くと、“ションベン横町”とか“たぬき小路”と呼ばれる狭い路地があった。その路地の両側に、5、6人が一列に座れば一杯になってしまうカウンターだけの小さな飲み屋が並んでいる。
女の嬌声や酔っ払いの男の声が、あちこちの店の中から聞こえてくる路地を、本間が歩いて行くと、数メートル先の店の前で、若い女が所在なさそうに屈みこんでタバコを吸っているのが見えた。その女はじっと本間の方を見ている。本間が通り過ぎようとすると、女は立ち上がり声をかけてきた。
「あんた若くていい男だねぇ。一杯飲んで行かないかい。サービスしてあげるわよ」
女は本間の腕を取り、そして体を寄せてきた。
本間はまんざらでもない気分でその女の肩に手をかけた。すると
「俺の女に何しやがる!」と叫びながら、木刀を持った男が現れた。
「おい若いの、痛い目に遭いたくなかったら金を出しな」
本間は呼吸を整え、男と対峙した。無言の本間にイラついた男は、「この野郎!」と叫び襲いかかってきた。本間はぐっと踏み込み、木刀を握りしめた相手の腕を払い、体を入れて見事に男を投げ飛ばした。
「オウ、グレート! ビューティフル!」
見物人の中にいた米兵達が声を上げた。
それ事件から数日後、杉本社長に米軍関係者から連絡が入った。たぬき小路での一件が三沢基地で話題になり、米軍が合気道に関心を持っているので、本間を紹介してもらえないかというのである。杉本は、本間に「米軍の面接」を受けることを許可した。
数回の面接を経て、本間は格闘術師範として三沢米軍空軍基地に採用されることになった。時は昭和46年(1971年)、本間学21歳の時である。
三沢米軍基地
採用が決まった後、三沢基地の中を案内されている最中、本間はずっと驚いていた。いわゆるカルチャーショックである。
広い道路を大きなアメ車が走っている。キャンプタクシーという基地専用のタクシーであった。戦闘機と同様に灰色にペイントされたキャデラックやフォードの大型乗用車を、基地内の将校、兵士そしてその家族達がタクシーとして使っていた。その車の後部座席は5人の大人が座れそうな広さであった。
そしてまた、将校用宿舎のリビングも広かった。大きなソファに腰掛けると、相手は4、5メートルも先のソファに座っている。日本人にとっては何とも落ち着かない広さであった。冷蔵庫も洗濯機も、日本製の2倍はある。キッチンの生ゴミ処理機が、ガーと音を立てて動き出した時、本間は将校夫人が大きなミキサーを使い始めたのかと思ったそうだ。
広い庭の緑の芝もきれいに手入れされている。その緑の芝の上で週末ともなれば家族が楽しそうにバーベキュー。テレビで観た快適な夢のような世界が目の前で展開されていた。
基地内の大型食料品スーパーには、米国本土から空輸された食料品が豊富に並べられていた。大きな牛肉の塊は安価、当時日本では高級ウイスキーであった“黒ラベルのジョニーウオーカー”なども倉庫に沢山積まれてあり、市価の4分の1程度の値段で買うことができた。
さらに、基地内の映画館では最新アメリカ映画が毎週末上映されており、米国の芸能人の慰問活動も活発だった。クラブの舞台には日本の一流ジャズ歌手やジャズ奏者も出演していた。