デフリンピックが映し出す『聞こえの壁』
デフリンピックは聴覚障がいのあるアスリートが参加する国際総合競技大会。東京大会は、第1回大会の1924年パリから数えて100周年の節目となる。
そこで必要とされるのが、大会に参加する国内外のデフアスリートとその関係者計約6000人に向けた字幕対応だ。
YYSystemは話し言葉をリアルタイムで文字化し、スマートフォンや卓上ディスプレイ、透明スクリーン、スマートグラスなど多様な端末に表示する。YYSystemを活用したスマホ向けアプリ「YY文字起こし」は個人ユーザーなら無料で使える。デフリンピックでは施設や大会向けにはセキュリティを担保した導入モデルを提供する。
そもそもアイシンといえば、世界的な自動車部品メーカーとして知られる。なぜ音声文字起こしのシステムを開発したのか、開発責任者である中村正樹さんは、きっかけは社内でのことだったと話す。
株式会社アイシン 中村正樹さん「社内の知識データベースを作る研究をしていた時、会議の音声を文字化し蓄積する仕組みを作っていたのですが、そこに『話せない人のデータは残らない』という不公平がありました。さらに、コロナが起こり、マスクが普及して口の動きが読めなくなった。聴覚障害の仲間が会議に参加していても内容を理解できない状況が生まれました。そこから、まずは同じ情報にアクセスできる状態をつくるべきだと気づき、音声認識と文字表示の仕組みを最初に作りました」
そして、作り上げられたYYSystemは瞬く間に評判となり、聴覚障害者以外にも、社会へ広がっていく。実は筆者もアプリが話題になって間もない頃からのヘビーユーザー。とにかく、リアルタイムでの文字起こしの精度が高い。記者会見やインタビュー時に「YY文字起こし」の活用は必須となっている。最近では自動翻訳機能まで備わっていて、これを無料で使っていいのかと恐れ多くなる。
中村さんはシステムの思想を明快に語った。
「YYSystemは世界20億人以上の『聞こえの課題』を持つ人が当たり前に会話できる社会を目指しているインフラです。アプリとして無料で使っていただけますし、透明スクリーンや字幕表示システム、情報を示すポップなどを社会に浸透させる活動も進めています。スマートフォンだけでなく、スマートウォッチや鏡、今後はスマートグラスにも文字を表示できるようにしており手持ちの端末と簡単に接続できます。また、イベントを一度限りで終わらせず継続するため、『世界に字幕を添えるプロジェクト』を立ち上げました。デフリンピックでは全会場に導入されます」
プロジェクトの最初のイベント「世界に字幕を添える展」が今年5月に開催されていて、今回と同じ会場である商業施設ハラカドの美容院や花屋など21のテナントにYYSystemを設置。ショッピングの時に会話をサポートする形で使ってもらったという。7日間の開催期間中に1300人超が訪れ、口コミでも広がり、多くの方から付箋やWebアンケートで意見が届いた。
「(この声を元にしてさらに)改善できる部分は少しずつ直してきました。アンケートでは『行ってよかった』『次が楽しみ』という声も多く、継続していく手応えを感じています」(中村さん)
ろうインフルエンサーとして活躍する吉田まりさんは、実際に店を回ってうれしさを味わった。
「前回のイベントで字幕が付いたお店に行ってみました。これまで買い物は、会話がしづらくて少し構えてしまうところがあったんです。でも、YYSystemがあることで、店員さんとのやりとりが自然にできて、『聞こえないから(諦める)』という意識がスッと薄れました。自分から『これを見たいです』と伝えられたのはすごくうれしかった。日常の中で、自分が主役になれる瞬間がちゃんと生まれるんだと感じました。こうした体験が当たり前に広がっていくといいなと思います」
このような試行錯誤を重ねてデフリンピックに向けて備えていった。
デフリンピックで金メダルの鍵はYYSystem?
デフサッカー男子代表の林選手と女子代表の國島選手、北澤さん。男子は初戦で8-0の大勝利を収めた イベントの前半には、デフリンピックの実施競技の1つであるデフサッカーの男子日本代表の林滉大選手、女子日本代表の國島佳純選手、日本障がい者サッカー連盟会長の北澤豪さんが登壇した。
競技としてのデフサッカーは、基本ルールは一般のサッカーと同じだが、選手は試合中に補聴器を外すため、声の指示が使えない。審判は旗で合図し、選手は視線や身体の向きで素早く状況を共有する。いわば、音のしない世界でサッカーをする。
GKの國島選手は、試合中の連携について「後ろから指示を出しても、前の選手たちには伝わりにくいことがあります。前の選手には、その指示がわからない。その場合は、目で合図を送りながら『もっと後ろ』『もっと前』といった形でコミュニケーションを取ってプレーをしています。視覚的なコミュニケーションが必要です」と説明した。
FWの林選手は、日常とプレーが地続きだと話す。
「普段の生活の中で皆さんのことをとてもよく見ています。日常生活の中でも、首をよく動かしていろんな方を見て視野を広くするよう心掛けています。見ることの積み重ねがプレーの精度につながっていると思います」
北澤さんは「デフサッカー日本代表のレベルは非常に高い。一緒に練習していても(健常者のサッカー選手と)差を感じない」と感心した。
会話のやり取りの最中、北澤さんは目の前のモニターにリアルタイムで映し出される文字、YYSystemによって書き起こされている字幕の精度の高さに驚いていた。
「こうしたコミュニケーションツールが活用されれば、後半に向けたフィードバックにも効いていくでしょう。しかも、YYSystemは画面を半分にして、こちらから見ている側と、喋っている側、両側を同時に見られるというのがとてもいいですよね。パソコンがこれまで課題だった部分もあると思うので、これはメダルに近づける一つの手段ではないでしょうか」
デフサッカーは男女ともにメダルが期待されていて、後日開かれたデフサッカー日本代表の壮行会では男子代表の松元卓巳キャプテンが「必ず金メダル」と宣言していた。
文字起こしアプリから「おもてなしインフラ化」へ
字幕が設置された場所が一目でわかるMAP また、この日のイベントでは、都市実装を加速させる新アプリ「YYMaps」の公開も発表された。設置拠点(YYスポット)の検索に加え、利用者が「ここにも字幕がほしい」とリクエストを送れるのが特徴だ。リクエストが集まるとアプリの地図上にピンの数字が増えて、ニーズが可視化される。
さらにデフリンピックの期間に合わせて、11月15日から12月7日までの23日間にわたり、都内約100カ所をYYスポットとして結ぶ「世界に字幕を添える展 in 東京」が実施される予定。
YYMapsにはデジタルスタンプラリー機能も備わり、参加者は街歩きを通じてスポットをめぐる。11月22日には明治公園で「YYフレンズを探せ」を開催、12月7日には「世界に字幕を添えるコンテスト」結果発表も予定される。
横井さんは都市スケールでの実装をこう位置づける。
「字幕スポットが点でなく、線や面でつながると、街全体の体験が変わります。市民の声を地図に重ね、運営側と店舗側が確認しながら増やしていく。その循環をつくりたい」
このようなYYSystemのおもてなしインフラ化は、スポーツの枠を越え、映画・舞台・展示など文化領域にも広がる。イベントの後半に登場した映画「みんな、おしゃべり」の河合健監督は、映画現場での活用を紹介。日本語社会の中でろう者一家とクルド人一家が言語格差によって家族同士が対立するというシニカルなコメディである同作品では、実際にYYSystemをそのまま活用して映画内のワンシーンにも映っている。
「去年の撮影前に、手話通訳の方から『今では多くのろうの人がYYを使っている』と聞いてとても驚きました。実際に触れてみると、DMで届いた声に一つ一つ丁寧に対応して改良していて熱量がすごいと思いました。使っている人が良いと言って広めてきたんだろうなと感じました。だから映画で使われるのも本当に自然な流れでした」(河合監督)
性能の良さに、テレビの字幕や映画館でも活用をすればいいのではとアイデアを述べた。
「僕は小さい頃から家ではいつも字幕付きの番組を見ていまして、でも生放送の字幕って遅れてしまうことが多くて内容がぐちゃぐちゃになる。映画館でも上映時間や案内が分かりづらいという声を、ろうのスタッフたちからたくさん聞きます。映画の現場やエンタメには、まだ情報保障が足りていない。そこにYYが入る意味は大きいと感じています」
個人利用無料を維持するために
何度も強調するが、本当に無料で使っていいのですかって思えるほどの高性能アプリだ。どんどん開発が進んで精度も機能も向上している。明らかに開発費用が投入されているはずであり、会社である以上、事業性を求められるだろう。イベント後にその点を横井さんに問いた。
「もちろん事業性は必要です。しかし、当事者の皆さんに多額の利用料をご負担いただくようでは、本来の目的に反してしまいます。そこで法人向けサービスで収益を確保し、必要とされる方々が無料で使える環境を維持しています」
実際に、今回のデフリンピックに限らず、特にスポーツの現場での導入が始まっているという。
「デフリンピックでは全会場に導入されていますが、これは一度きりの取り組みではありません。今年東京であった世界陸上やプロバスケットボール Bリーグのシーホース三河など、国際大会やプロスポーツの現場でも活用が進んでいます。スポーツ会場は音が多く言葉が届きにくい場所でもあるため、字幕は観戦のハードルを下げ、誰もが同じ情報にアクセスできる環境づくりに繋がります。今後はJリーグやプロ野球など、より多様な現場に広げていきたいと考えています」(横井さん)
ただ、YYSystemが目指すのは、誰かを特別に助けることではなく、最初から誰も取り残さない都市設計というのがまず前提だ。
中村さんは、YYSystemの公共性と持続可能性を両立させる事業設計に触れた。
「個人利用は無料に、法人はセキュリティを担保した環境で有償にする。無償依存でも、当事者負担でもなく、社会の基盤として回す形を選びました」
世界に広げる『字幕が当たり前の社会』に向けて
今後さらに精度の改善や機能向上を目指していく。
「YYSystemは単独の技術ではなく、音声認識や翻訳、自然言語処理を組み合わせて精度を高めています。Microsoftの音声認識エンジンに改善を依頼し、ChatGPTなどを用いて文脈を補正し、自然な文章に近づけています。使われるほど間違いの傾向が分かり、改善が進む仕組みです。現在は日本国内だけでなく、タイや台湾でも広がっており『字幕が当たり前の社会』を世界規模で実現できる可能性が見えてきています」(中村さん)
そしてデフリンピック後もYYSystemが日常生活の当たり前の存在になることを目指す。
「今回、デフリンピックでは全会場にYYSystemを導入していただきましたが、目的は大会だけのためではありません。字幕があることが特別な配慮ではなく、社会の中に当たり前に存在する状態をつくりたい。東京の街中に字幕を添えるポイントを増やし、使う人が困った場所を自分で示せる仕組みとしてYYMapsも公開しました。生活の場所や職場など、日常の中で継続して使えるインフラにしていくことを目指します」
東京デフリンピックはスポーツの国際大会であると同時に、社会に変革をもたらすきっかけにもなっていく。デフリンピック後の社会、風景が待ち遠しい。
字幕があたりまえになる社会についての思いを伝え合った登壇者たち