17年連続Bクラス、夢物語だった「優勝」

 王貞治が福岡ダイエーホークスの新監督に就任した1995年、一人の高卒ルーキーが福岡の地を踏んだ。ドラフト1位で入団した城島健司だ。

 ホークスが大阪から福岡へと本拠地を移したのは89年のことだから、城島が入団した95年は、移転から7年目のシーズンにあたる。現埼玉西武ライオンズの前身球団が78年のシーズン限りで福岡を去って以来、ようやく地元に誕生したプロ野球チームとあって、ホークスを応援しようというムードは確かにあった。

 だが、それはあくまでムードであり、深く根を張る状態には程遠かった。城島が言う。

「街を歩いている子どもたちがかぶる帽子を見ていても、一番はジャイアンツ、その次にライオンズが多かったような気がしますね。ホークスが定着しているなっていうイメージは、正直なかった」

 理由の一つは明確で、チームが弱かったからだ。当時のホークスは、前身の南海時代から17年連続でBクラスに沈んでいた。

 93年に竣工した福岡ドームも、黄金期を謳歌していたライオンズとの試合ともなればスタンドの半分以上をビジターのファンが埋め、ホーム側のライトスタンドには空席が目立った。地元メディアは開幕前に「今年こそは」と威勢のいい記事を書くものの、現実味は乏しかった。福岡の街の人々にとって、優勝は夢物語に過ぎなかった。

 おそらくそれは、グラウンドで戦う選手たちの多くにとっても同じだった。

「翻訳者」が繋いだ次元の違う言葉

 そこに新監督としてやってきたのが王だった。就任当時54歳。大きな両目に気迫をみなぎらせ、チームに意識改革を迫った。

 しかし、長年のBクラスに慣れきってしまった選手たちとの間には、埋めがたい温度差があった。就任1年目の95年は5位、翌96年は最下位と苦戦を強いられた。

 そもそも、ジャイアンツのV9時代を牽引し、国民的スターとして生きてきた王と、当時のホークスの選手たちとでは、見ている景色もプロとしての意識も違いすぎた。城島は「ちょっと話している次元が違った」と振り返る。

 それでも、王の情念は次第に組織に浸透した。その過程で重要な役割を果たしたのが、ライオンズの黄金期を知る移籍組のベテランたちだった。94年にトレードで加入した秋山幸二や、95年にFAで加わった工藤公康、石毛宏典らが王の言葉の“翻訳者”を務めた。

「秋山さんや工藤さん、石毛さんは、王さんの言ってることが分かるわけですよ。僕らにはピンとこないけど、あの人たちがフィルターになって間に入ってくれることで『プロ野球選手というのはこうでなければいけない』ということが理解できるようになった」

 秋山らを介して“翻訳”された王の教えは、とりわけ、小久保裕紀や城島ら若手選手たちに真っ直ぐ響いた。彼らが順調に成長し、主力へと定着していくことで、チームの新陳代謝は一気に進んだ。

 そして99年、ホークスは悲願のリーグ優勝と日本一を達成。翌2000年もリーグ連覇を果たし、現在に至る強いチームへの明確な流れができあがった。

城島健司氏

ファンサービスで選手の自覚を促す

 王のマネジメントにおいて特筆すべきは、「ただチームを強くすればいい」という枠に収まっていなかった点だ。

 より本質的に「我々が目指すべきプロ野球のあり方とは何か」を常に考え、その最上位にファンを位置づけた。スポーツビジネスへの解像度が高まった今の時代でこそファンサービスの重要性は当たり前のように語られるが、当時はまだそうした意識は希薄だった。ともすれば「面倒なもの」と考える選手も少なくなかったはずだ。そうした中でファンファーストを徹底していたのは、長年プロ野球の「顔」として球界を背負ってきた王だからこその視点と言える。

 最も分かりやすい例が、キャンプ地でのファン対応だろう。城島が言う。

「王さんは、選手の動線の近くまでファンが来られるようにした。近くで見てこそ『でかいな』『すごい髪型だな』と感じられるし、プレゼントを渡すこともできるじゃないですか。せっかく見に来てくれるファンに、その目的の一つでも達成させてあげようよというのが王さんの教えなんです」

 王が巧みだったのは、ファンサービスを選手自身の自覚や成長へとつなげるようなアプローチをとっていたところだ。

 例えば、まだ肌寒い3月に行われる最初のオープン戦。試合を楽しみに待ってくれていたファンへの誠意として、王はベストメンバーで臨むことを常としていた。これに若手だった城島が不満を漏らすと、王はその肩をポンと叩いてこう諭した。

「お前の名前がスタメンになかったらファンはがっかりするだろ? 三振してもいいから打席に立ちなさい」

 その瞬間を城島は「選手として一段階、上がったような気がして嬉しかったですね」となつかしむ。主力としての自覚が芽生え、翌年以降、オープン戦初戦の先発起用に不満を漏らすことはなかった。

 またあるときは、キャンプ地でブルペンに向かう城島を呼び止め、「ジョー、ファンの皆さんにサインをして差し上げなさい。10分くらいブルペンに行くのを遅らせたって下手にはならんから」と言った。そんな言葉も若き捕手の自尊心をくすぐった。

「今日は何の日か分かるか」

 王の視線の先には常にファンの姿があったが、彼らとのコミュニケーションにメディアを巧みに活用した。

「試合前のミーティングで、急に『みんな、今日は何の日か分かるか?』って選手たちに訊いてきたことがありました。誰かの記録でもかかっとるんかなと思ったら、『今日はNHKで中継がある日だぞ』と言うんです」

 いかに見られているかを強く意識し続けてきた王ならではのエピソードだろう。「見ているファンを喜ばせよ」という思いと、「放送を通じて自分たちの活躍が全国に知れ渡るこのチャンスを逃すな」という激励が込められていたに違いない。

 メディアの影響力の大きさを誰よりも熟知していたからこそ、選手には各々の発信について強い責任を求めた。「プロ野球選手は夢を売る仕事」だと考える王にとって、その前提を壊す発言や態度は決して許されないものだった。

 小久保が現役時代、失策について質問した新聞記者に「自分の実力はあんなもの」と言い放ち、それが記事になったことがあった。記事を見た王が「君のこの発言でファンが夢を買えると思うか」と激怒した話は有名だ。城島自身もこの教えを胸に刻み、現役中はどんな状況であれ、自らの言葉に責任を持って取材に応じ続けた。

 こうした責任ある発信への姿勢は、今のホークスの選手たちにも受け継がれている。

1999年の優勝が街とチームを一つにした

 子どもたちはジャイアンツの帽子をかぶり、福岡ドームのスタンドをビジターファンに占められていた光景が、大きく変わり始めたのは99年のことだ。

 福岡移転から11年目にして初めて、ホークスは本格的な優勝争いに加わることになる。城島が思い返す。

「勝てば『いけるぞ!』と盛り上がり、負ければ『やっぱり俺たちには無理なのか……』と落ち込む。そんなふうに街全体が毎日一喜一憂しているような感じだった」

 この激しい感情の揺れを共に体験したことこそが、地元のファンとホークスとの距離を一気に縮めた。さらに最終的にリーグ優勝・日本一を成し遂げたことで、一つの明確な思いが共有される。「優勝って、こんなにいいものなんだ」という、シンプルで強烈な喜びだ。

 選手たちは「またあの喜びを味わいたい。だから練習しよう」と自らを追い込み始めた。ファンもまた「あの感動をもう一度味わわせてほしい」と、さらに熱い声援を送り始めた。

 互いの思いが複雑に絡み合いながら、雪だるま式に膨らんでいく。その積み重ねが30年以上の月日を経て、現在の福岡とホークスの関係を築き上げたのだ。

王イズムの継承は新たなフェーズへ

 城島は少し表情を引き締め、こう語る。

「先日、小久保監督がある選手に『信頼を積み重ねるのは大変な努力がいる。でも崩れるのは一瞬だ』という話をしていました。それはファンと球団の関係性においても同じだと思う」

 勝利とファンサービスによって強固になった絆も、その地位にあぐらをかいてしまえば一瞬で失われかねない。だからこそ、大切なのは継承だ。城島はこれまで、現場の若手選手や球団スタッフに対して「王イズム」の継承を口酸っぱく説き続けてきた。

 今回の「FUKUOKA OH SADAHARU LEGACY PROJECT」も根底にある思いは同じだが、これまでの取り組みとは決定的に違う点がある。継承を託す相手が、チームの内側ではなく外側、つまりファンに向いているのだ。

「生卵を投げつけられるくらい弱かった時代から、今のホークスをつくり上げてくれたのは間違いなく福岡のファンです。だからこそ、これからはファンの人たちにも『王イズム』を継承していってほしい。球場で親から子へ、『昔は弱かったけど、王さんが来て強くなった。みんなで街を変えたんだぞ』と語り継いでいくようなね。今回のイベントが、そうやって球団の歴史をこの街の誇りとして共有していく、一つのいいきっかけになってほしいんです」

 5月24日には本プロジェクトの目玉イベント「OH SADAHARU LEGACY DAY」が開催される。背番号「89」のユニフォームを着たファンがそれぞれの家路につくとき、球団の壁を越え、街の日常へと「王イズム」が静かに広がっていく。


VictorySportsNews編集部

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