#1「ジャマルの身に何が起き日本に来たのか、なぜ日本でプロを目指したいのか」#2「ジャマルが国外避難への経緯を語る」#3「当時のシリアサッカー、そして当時の内戦の状況とその理由について」

取材・文・写真=木之下潤 写真提供=ジャマル

日本で難民認定を受けることの難しさ

——エジプトに行くまで、どこに避難をしていたのですか? 

ジャマル 1週間は知り合いのところにお世話になり、車でレバノンに向かって飛行機でエジプトに行きました。そこから、最初はいとこのいるスウェーデンに飛行機で行きました。スウェーデンはシリア難民には通常は寛大な国なのですが、招待レターがもらえなくてあきらめざるを得ませんでした。そこで、おじさんのいる日本に行こうと思ったんです。おそらく、陸路でスウェーデンに膨大な数のシリア難民が押し寄せていたので、そちらの対応に追われて飛行機で行った僕たちにまで手が回らなかったのだと思います。

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(写真=デンマークのコペンハーゲンからスウェーデンのマルメへと向かう列車に乗るシリア難民)

——日本に来てからおじさんの家にいて、いつから家族だけで生活を始めたのですか? 住居を借りるのは難しそうですが……。

ジャマル おじさんの家には3カ月ぐらい住ませてもらい、その後アパートを借りて母と妹と3人で住みました。おじさんが保証人になってくれたので、無事に借りることができました。不動産屋がいい人でとてもよくしてくれます。

——ジャマルが難民申請をした頃は、6カ月間就労ができない決まりがあったと聞きました。生活費はどうしていたのですか?

ジャマル はじめの3カ月は不法で働かざるを得ませんでした。解体屋の現場仕事をやっていました。申請後、6カ月後に就労の資格をもらえたので、そこからはレストランで働いていました。他にも英語の講師もやりました。

(※補足/難民申請をしても認定には時間を要するため、現在は6カ月ごとの更新が義務付けられている。申請をしたとしても日本では定住支援は受けられないが、段階に応じて生活保障や就労、国民健康保険、住民票の権利が与えられる。ジャマルが難民申請をした当時は特定活動に区分けされ、日本での6カ月の活動は許可されたが、就労や国民健康保険をもらえる権利は与えられなかったため、実際には働けず病院負担も10割というものだった。たとえば、生活保障が与えられると保護費として外務省から生活費や住宅費、医療費などの支援を受けることが可能だが、ジャマルは「おじさんがいるから」という理由で保護費を受けられなかった)

——解体屋で働いていたときにケガをして破傷風にかかった、とか?

ジャマル 現場でくぎを踏んでしまい、足をケガしてしまいました。でも、保険もなくお金がないから病院に行くことすらできません。1週間は働き続けたのですが、歩けなくなるぐらい足が腫れてしまって……。いろんな方々に相談したら、当時小学校6年生だった妹の先生がサポートしてくれて病院に行くことができました。ケガなんて解体屋にいたときは当たり前で、くぎやガラスの破片、折れた木など危険なものがそこら中に落ちています。だから、ケガをする可能性はありました。

——難民認定されるまで、何がもどかしかったのでしょうか?

ジャマル 当時はシリアにいる父は、雇用先のホテルとの契約を打ち切られ働けなかったので、父も母も妹も僕が養わなければなりませんでした。もどかしいというよりは大変でした。ずっと働き詰めでお金を稼いでいたので、そんなことを考える余裕もありませんでした。

——一人で家族を支え、将来に対して不安を感じませんでしたか? 

ジャマル 自分は家族を養う責任を負ってしまったので、「やるか、やらないか」というより「やるしかない」ですよね。ムスリムの「大変なことはずっと続くわけではない」という教えのもと、自分の責任を果たしていくという気持ちでいました。だから、自分が何をしたい、何が欲しいなど考えることすらありませんでした。

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(表=2015年10月時点での各国のシリア難民受け入れ状況の比較)

プロを目指したいと思った真意は「やれる」と思ったから

——自分のことを考えられるようになったのはいつ頃からですか?

ジャマル 難民認定を受け、父を日本に呼び寄せられてから、少しずつ心に余裕が生まれました。そこからサッカーのこともインターネットで調べて、Jリーグのクラブにメールを送ってみたりしながら動き始めました。明治大学への留学を考えたのもそこからです。エジプトに渡り、日本で難民申請をしてから認定されるまでの2年間は、全くサッカーすらしていませんでした。

——目の前のことをやるだけだったんですね。

ジャマル ムスリムの教えで「この状況がずっと続くことはない」と確信していたので、辛抱強く自分の責任を果たしていました。

——東京都リーグのチームにはどうやって入れたのでしょうか?

ジャマル 海外でも使われているソーシャルネットワークサービスのサイトに、現在所属している東京都3部リーグのチームが選手を募集していたんです。履歴書を送ったらトライアルに招待してくれて、それで合格しました。試合でゴールを決めることができたんです。ちょうど難民認定された頃だから、2015年の春ぐらいだったと思います。
そのつながりで2部リーグのチームからも誘われ、2チームに所属することになったんです。周りは僕がシリアから来たのを知っているし、サッカーのことも理解し合えているので、いい関係です。

——サッカーをプレーできるようになって、プロへの夢を思い出したというわけですね。

ジャマル 数カ月プレーしてみて、「まだやれる」と感じたんです。それで関東近辺のJリーグのチームに、「トライアルを受けさせてくれないか」というメールを直接送ったんです。10チームぐらいは送ったように記憶しています。

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(写真=日本とは別グループで最終予選を戦いワールドカップ出場を目指しているシリア代表)

——ちなみに、自国の代表チームについては気になりますか?

ジャマル あまり気にならないです。僕がシリアにいたときのサッカー協会自体の体制もありますが、昔とは違って知り合いがいるわけでもありませんから……。それに正しい選手を選んでいるとも思えませんから……。

——最後の質問です。今後、自分の人生をどう過ごしていきたいと思っていますか?

ジャマル まず日本語をしっかり勉強して、日本でプロを目指したいです。もし、そうなれたらコーチとかサッカーに携わって生きてみたいですね。もう一つ考えているのは、通訳の道です。明治大学では第2外国語でスペイン語を選択しているので、アラビア語と英語、それに日本語やスペイン語ができたら、4カ国語を話せるようになります。だから、勉強もしっかりとやっていきたいです。


木之下潤

1976年生まれ、福岡県出身。編集者兼ライター。福岡大学を卒業後、地元の出版社や編集プロダクションで幅広く雑誌や広告の制作に関わる。2007年に上京後、角川マガジンズ(現株式会社KADOKAWA)に入社し情報誌の編集を行う。2010年にフリーランスとして独立。現在、サッカーの分野では育成年代をテーマに『ジュニアサッカーを応援しよう!』『サカイク』などの媒体を中心に執筆。基本は「出版屋」としてあらゆる分野の書籍や雑誌、WEB媒体の企画から執筆まで制作全般にたずさわっている。