文=いとうやまね
時間の残酷さと、眩い未来/SP『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』
©Getty Images『ラヴェンダーの咲く庭で』は、英国人作家ウィリアム・J・ロックが1916年に発表した短編小説である。2004年に映画化された。その主題曲『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』は、過去に数々の名演技を生んできた。
かつて町田樹が競技生活最後に演じた時は、ストーリーテラーを思わせる立ち位置で、そのスケーティングは物語の舞台であるイギリス西部コーンウォールの海食崖を吹き抜ける風を感じさせた。浅田真央が淡い紫色の衣装で演じた時は、一面に広がるラヴェンダー畑からのむせるような香りを思わせた。宇野の演技には、青年の目から見える風景を垣間見ることができる。
木管の優しい響きと胸に迫るオーケストレーション、エモーショナルなヴァイオリンの旋律は、コーンウォールの雄大な自然を映し出し、悲しい恋の行方を暗示する。
異国の言葉を話す青年アンドレアは、老姉妹の献身的な手当てで回復し、やがてポーランド人であること、ヴァイオリンの名手であることがわかってくる。若いアンドレアの出現で、穏やかな老姉妹の生活に変化が起こる。片言ながらの楽しい会話と、美しいヴァイオリンの音色、瑞々しい笑顔と笑い声は、小さな幸せを運ぶとともに、戦争で恋愛の機会すら失い年老いてしまった妹アーシュラを、乙女に変えてしまうのだ。そんな妹の変化に気付く優しい姉ジャネットと、まるで気づかない(気づく由もない)無邪気なアンドレア。それは、決して報われることのない恋であり、あまりに悲しい現実だ。
ラヴェンダーが意味するもの
©Getty Images 死をも予感させる海の底と、命をつなぐ薄明。瑠璃色からみ空色(みそらいろ)へのグラデーションに施されたキラキラと輝く無数のストーンは、あの朝、海辺に横たわるアンドレアが纏っていた波しぶきのようだ。宇野の新しい衣装がなんとも美しい。
この物語の原題は『Ladies in Lavender』という。文字どおり訳すならば「ラヴェンダー色の服を纏った婦人たち」になる。これには邦題とは少し違ったニュアンスがある。英国では古くからの習慣で、長くクローゼットにしまわれるリネンや、使用しない服の間に、防虫効果のあるラヴェンダーを挟んで保管することがある。この映画に出てくる老姉妹は、日々穏やかに暮らす、“長く恋愛から遠ざかっている”女性たちだ。それを婉曲的に「ラヴェンダーを纏った……」という表現を用いて説明しているのだ。
劇中にラヴェンダーが出てくるのは、アンドレアが姉妹のために摘んでくる小さな花束ただ一度だけである。それでも、手入れの行き届いた草木や花、大切に使っているアンティークテーブルとチェア、そこでいただく紅茶、それらすべての空気感が、この『ラヴェンダーの咲く庭で』という邦題を、原題よりも親和性のあるものにしている。素晴らしいネーミングセンスだ。
劇中の音楽は、イギリス人作曲家ナイジェル・ヘスによるもので、ヴァイオリンは、人気ソリストのジョシュア・ベルが演奏している。アンドレア役のダニエル・ブリュールは、はにかんだ笑顔がキュートで、宇野に重なるところがある。老姉妹は英国が誇るベテラン女優、ジュディ・デンチとマギー・スミスが好演している。
別れの時、そして未来へ
©Getty Images 庭から見渡せる果てしない水平線は、未来へと続いている。村人たちとも打ち解け、姉妹のかけがえのない存在になっていたアンドレアにチャンスが巡ってくる。高名なヴァイオリニストに会う機会が与えられたのだ。アンドレアは、自分の夢を実現するために村を去る決心をするのだ。難易度の高いジャンプやステップは、「心の葛藤」と、自分の才能に対する揺るぎない「自信」を感じさせる。青年のいなくなった部屋には悲しみが満ちている。短い夏が終わりを告げる。
それから数年、遠く離れたロンドンでヴァイオリニストとして華々しくデビューするアンドレア。老姉妹は青年の晴れ舞台を、客席から誇らしく、そして温かく見守るのだった。最後の高速スピンからは、演奏会の成功と、観客の割れんばかりの拍手が聞こえてくるようだ。そして、老姉妹は再び穏やかな生活に戻っていくのである。
この『ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲』にはもうひとつ、長調で作られたバージョンがある。映画の最後に流れるのだが、その優しい慈愛に満ちた調べに、ふと、浅田真央を想った。
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