文=いとうやまね
【前編】音響デザイナー・矢野桂一が紡ぐ『フィギュアスケート音楽』の世界アイスショーとプロのこだわり
ⒸFantasy on Iceアイスショーの楽しみは、何といっても現役スケーターの演技を身近に堪能することと、プロに転向した個性的なOBOGの面々に再会できることだ。競技とはひと味違う演目に、生で演奏するゲストもいる。矢野さんにとって、忙しくも嬉しい季節である。
数か月前、矢野さんは膨大なファイルの中から、オーケストラのチューニング音を見つけ出した。そして、若干の編集を加え発注者に手渡した。クラシックの演奏会やオペラなどの開演前に行われるあれである。オーボエを合図に奏者が一斉にA(ラの音)を奏でる。
アイスショーで披露された『ドンキホーテ』は、まさにそのチューニング音からスタートした。舞台に見立てたリンクの一辺には真紅の幕が張られ、その中央を印象的にスポットライトが照らす。独特の緊張感が流れ去ると、すーっと幕が左右に開き、いよいよ町田樹の登場だ。決して競技ではやれない、プロスケーターである彼なりのプロローグである。
生演奏が生むサプライズ
ⒸFantasy on Iceアイスショーの醍醐味のひとつに、生演奏がある。クラシックからポップス、ジャズ、ロックと、様々なジャンルのアーティストが、氷上のスケーターたちとコラボする。普段のコンサートと違うのは、彼らにとって“ありえないところ”で歓声や悲鳴、拍手が起こることだ。そのあたりは前もって了解済みらしく、矢野さんたち音響サイドも、ジャンプやスピンに合わせて音量を調整する。
一般にクラシック界は保守的で、奏者もあまり原曲をいじりたがらない。classical music(古典)と呼ばれる所以だが、そんな中にも熱狂的なフィギュアファンの音楽家もいる。例えば、福間洸太朗氏。パリ国立高等音楽院やベルリン芸術大学で学び、20歳でアメリカ・クリーヴランド国際ピアノコンクールで優勝という国際的ピアニストだ。
「福間さん、フィギュアスケートがすごく好きで、実は僕がやっている仕事にも興味があるとおっしゃってるんです。選手に曲をいろいろ紹介したいらしいです」
クラシックの演奏家がフィギュアの曲を聞いて仰天するという話はよく聞く。逆にプログラム曲を集めたコンサートでは、正規の長さに驚くスケートファンも多い。例えば、羽生選手の3分弱の『バラード第一番』が9分間たっぷりあったりするわけだ。
「福間さんは、頭の中で演技と曲がシンクロしていて、ぴったり合わせられるんですよ」
去年になるが、福間さんが羽生選手の「映像」に合わせてピアノを弾くという演出があった。演奏するのはショパンの『バラード第一番』で、ピアノの前には楽譜ではなくモニターが置かれていた。福間さんは、画面に映る羽生選手の動きをタクトに、プログラム用に編集されたバラード第一番を完璧に弾いて見せたのである。しかも、音源に使用しているクリスティアン・ツィメルマンのテンポにしつつ、独自のニュアンスと感情を込めながら。
実は、福間さんがリンクで『バラード第一番』を弾いたのは、この時がはじめてではない。以前ショーの途中で氷上にトラブルが発生し、整氷タイムが設けられたことがあった。その時、間をもたせるために演奏したことがあった。本人の粋な計らいだった。それを聴いていた羽生選手のリクエストで、最終日のアンコールにも『バラード第一番』が付け加えられた。結局、2回演奏したわけだ。
「羽生君、結構突拍子もないことを言ってくるんですよ。みんなプロだからやろうと思えばできるんですけど。まぁノリですよね」
ギタリストのプライド
ⒸFantasy on Ice「先日の新潟公演は見られましたか?また羽生くんが、『矢野さん、パリ散の音源ありますか?』って聞いてきたんです」
矢野さんは、すでに羽生選手のとんでもない思いつきに免疫が出来ている節がある。目を細めながら話してくれた。『パリの散歩道』はロックギタリスト、ゲイリー・ムーアの代表作だ。スケートファンは愛情を込めて『パリ散』と呼んでいる。ソチ五輪でも演じた人気のプログラムである。
『今回、生のギターの方がいますよね。杏里さんのバンドメンバーのギタリストの方』
なんとなく羽生選手の考えていることが分かった。それでいろいろ話をすると、やはり“ギターを生で出してほしい”ということだった。アイスショーの最終日に、パリ散で共演したいと言うのである。そればかりはミュージシャン側に相談する必要がある。事務所にも言わなければならない。何よりショーの主催者を通して話さないとまずい。
「全員がオーケーならば、ぼくも手伝ってあげると、主催者側から羽生くんに伝えてもらったんです。すると、ギタリストの今野竹雄さんも、『光栄です』と言ってきたと聞きました。ただし練習させてほしいと。急遽、前日にリハーサルをしました。羽生くんもいっしょに」
明けて当日のリハーサル。まだ、出だしを含めた詳細は決まっていなかった。
「その朝、目覚めてふと思ったんです。せっかくギタリストをフィーチャーするのだったら、演奏者もオマケみたいな扱いではなく、ちゃんと見せてあげなければと」
すぐに制作と話をした。シナリオはこうだ。羽生選手が一旦リンクから下がって、中で汗を拭いたりしてる時に、突然ギターがソロでパリ散のフレーズを弾きはじめる。お客さんから歓声。煽るようにメロディーを一回し弾く。大いに盛り上がったところで羽生登場。そのまま続けて、後半の『フーチークーチーマン』の音源に繋げていく。ギターはそのまま音源にあわせて弾く。
そのサプライズは大成功だった。“バラ1”の衣装のままというのも、なんだか新鮮だった。フーチークーチーマンはセッションでよくやる曲なので、ギターの今野さんもすぐに出来たのかもしれませんね。そう振ると、矢野さんは笑いながらこう返してきた。
「でも、きっと一晩中練習したんじゃないかな。前日のリハーサルと気合が全然違いましたよ」
後継者探し
©矢野桂一矢野さん自身の今後について伺ってみた。意外にも後継者を探しているという。いつまでこういう仕事をやれるかわからない。それでもフィギュアスケートという競技は続いていく。
「こういう仕事に興味を持っている人。音楽が好きな若い人。もし手を上げてくれたら、僕は喜んで引き継ぎたいと思っています」
音響の分野については、その道のプロがやればいいと思っている。問題はプログラム音源の編集だ。作業的には、パソコンでの編集を苦にしない、苦手じゃなければ出来るという。ただし、フィギュアスケートというものをある程度理解していて、音楽に対しての愛情と探究心、こだわりがなければ続けられない。センスも必要だ。
「とつぜん、『明後日から振り付けなんですよー』っていうのもあります。出張で飛行機に乗る寸前に電話がかかってくることも」
そんな時は、空港での待ち時間や機内が臨時の仕事部屋になる。羽田から福岡に行く飛行機の中で作業をして、到着後にホテルからデータを送ったこともある。どこ行くにもPCは持って行く。
「突然メールが届くんです。SEIMEIを作っている時は、休暇で行っていた八ヶ岳に来ました。町田くんからは石垣島から波照間島に渡るところ」
これはもう、好きでなければつとまらない仕事である。くわえて几帳面さも必要だ。大量のデータを一度に扱うわけだから、いいかげんでは困る。
「将来、誰かスケーターの中から手を上げて引き継ぎでくれる様な人がいればよいなと思っています。冗談で言ってるんですが、無良崇人くん。彼は音響に興味があって、よくブースに遊びに来るんですよ。 だからで「継いでよ」って言ってるんです」
矢野桂一からのメッセージ
「昔と違って今や競技会にもショーにもたくさんのフィギュアスケートファンの方が会場にいらしてくれるようになり我々としても嬉しいかぎりですが、出来ることなら最初から最後まで全部見て欲しいんですね。席を立って、目的のスケーターの演技時刻まで帰ってこないとか。そういうのは僕らからしてもやっぱり残念に思うんです。苦言ではないですけど、やはり全体を見て欲しいなとは思います。音楽を通した選手の個性でもいい。そういう部分をいろいろ見比べて欲しいです」
長年フィギュアスケートの世界に携わっていて、思うところはたくさんある。それはお客さんに対してだけではない。これからの選手やコーチ、関係者全員へ伝えたい、矢野さんからのメッセージを掲載する。
「近年は音楽にこだわりを持つ選手も増えてきましたが、まだ多くの場合はプログラム音楽を決める際に、コーチや親、振付師からの、いわゆる“与えられた曲”を使用するケースが多いと思います。少なくとも1年間その音楽で演技するわけなので、そこはやはり“自分がこの曲を表現したい”という気持ちで選曲にも拘ってほしいと思います。
フィギュアスケートに欠かせないものは、1にスケート靴、2に音楽プログラム、3に衣装だと、僕は思っています。たくさん聞き込んで、自分の物にして、そして演技に臨んでほしいのです。音楽の多くは既存のものですが、作者の意図に左右されないまでも、“自分なりのストーリー”を創り出してほしいと思うのです。
ただし、原曲は大事にしてください。振付けによる多少の効果音を足すくらいなら構わないと思いますが、原曲がなんだか分からなくなる様な編曲は、極力避けてほしい。これは、やはり作曲者の作った想いを大事にして欲しいと言う観点からです。最後に、何よりもこのフィギュアスケートが好きで始めたという初心を大切にして欲しいと思うのです」
<了>
羽生結弦が自らのスケート人生を投影したFS/『Hope & Legacy』
緑豊かなかの地に思いを馳せる。“杜(もり)の都”と呼ばれる仙台。かつて伊達政宗公が開いた美しい都には、遠く奥羽山脈から流れ込む川がいくつかある。羽生の生まれ育った町には、「七北田川(ななきたがわ)」が流れる。仙台平野を潤す河川の一つだ。ヘルシンキではフィンランドの壮大な自然をイメージしたという羽生。今季ラストとなる美しい調べに、母なる地を重ねてみたい。
王者・羽生結弦が贈る極上のエキシビション
星の囁きが聞こえてくるような静かな夜。サン=サーンスの名曲『白鳥』にのせたロマンティックで瑞々しい愛の詩を、羽生が体現する。今、一羽のオオハクチョウがヘルシンキの湖に着氷したようだ。
浅田真央のためにあるプログラム『蝶々夫人』その風景を心に刻む。
かわいい妻よ、バーベナの香りよ…。夫の愛を一途に信じ、健気に帰りを待つ若き蝶々夫人の悲哀と気高さを、浅田真央が情感豊かに表現する。演者のトレードマークともいえる薄紫は、ここではラベンダーではなく「バーベナ」に譬えたい。開催中の『浅田真央展』でも人だかりのできる衣裳のひとつだ。(文=いとうやまね)
宇野昌磨が狂気のアルゼンチンタンゴで革命を起こす
天才は天才を呼ぶという。狂人もまた狂人を引き寄せる。どうやら宇野はその両界隈に呼ばれたらしい。アルゼンチンが生んだ奇才、アストル・ピアソラの匂い立つバンドネオンに、小さな身体が大きく躍動する。リンクはたちまち深夜のブエノスアイレスに変わる。
[プロフィール]
矢野桂一
音響デザイナー/音楽編集プログラマー。1957年福岡県出身。1975年より音響技術師として活動。1978年よりYAMAHA東京支部音響担当。現在はフリーランスでフィギュアスケートの音響・音楽制作を行っている。