浅田真央について

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名前浅田真央(アサダマオ)
生年月日1990年9月25日
日本
出身愛知県名古屋市
プロフィール姉の影響もあって5歳でスケートを始めると、幼少期から出場する大会で優勝を積み上げていきます。小学6年生時には特例でジュニア、さらに全日本選手権にも出場。伊藤みどりへの憧れが強く、トリプルアクセルを武器にフィギュアスケート界を牽引。2010年バンクーバー五輪では銀メダル。

2014年ソチ五輪では6位。2大会連続で、3度のトリプルアクセルを成功させた唯一の女子選手。2015年5月から1年間の休養を経て競技復帰するも、2017年4月現役引退。主な戦績は、全日本選手権優勝6回、世界選手権優勝3回、具乱歩売りファイナル優勝4回、四大陸選手権優勝3回など。中京大学卒業。姉はフィギュアスケート選手の浅田舞。身長163センチ

ジュニア時代に敵無しの「天才少女」と称される

浅田真央がスケートを始めたのは若干5歳の時です。2歳年上の姉・舞とともに遊びでスケートリンクを訪れたのがきっかけでした。当時、安藤美姫も所属していた名東フィギュアスケートクラブに入会すると、みるみるうちに才能を開花させていきます。負けず嫌いという性格も手伝い、小学3年生からは出場した大会で、輝かしい成績を上げていきました。

2000年、2001年とジュニアの下のクラスとなるノービスBで優勝(小学3年、4年)、さらに2002年、2003年もノービスAでも優勝(小学5年、6年)とまさに負け無し状態となります。あまりの強さに小学6年生時には、ジュニアクラスにも出場して4位となると、特例中の特例でさらに上位の全日本選手権にも飛び級で出場を許されます。そして不完全ではありましたが、3回転フリップ-3回転ループ-3回転トゥループのコンビネーションジャンプを披露して7位に食い込み世間を大きく驚かせました。その頃から、世間は彼女のことを、天才少女と呼ぶようになっていました。

絶頂期にトリノ五輪出場を阻んだのはまさかの年齢制限

浅田真央といえば、その代名詞がトリプルアクセルといわれるように、この3回転半ジャンプにこだわり続けました。というのも、自身は1992年アルベールビル五輪で銀メダルに輝いた伊藤みどりに憧れていました。そして浅田同様、天才少女と呼ばれた伊藤が得意としていたのがトリプルアクセルです。難易度が高いジャンプのため、得点は高いですが、失敗するリスクも大きく、女子では挑戦する選手すら少ない大技といえます。しかし、小学生低学年からトリプルアクセルの練習を始め、小学6年時にはすでに試合でも成功させていました。

中学生となりジュニアクラスに出場するようになった浅田は、さらに凄みを増していきます。当然のようにジュニアで優勝を収めると、前年に続き全日本選手権にも出場し2位とすでにシニアクラスで実績を残します。さらにジュニア世界選手権でも初出場初優勝と飛ぶ鳥を落とす勢いをキープしました。2005年には早くもシニア国際大会デビューします。グランプリシリーズで結果を残して、グランプリファイナルに進むと、当時の世界女王を破って、村主章枝に続く日本人二人目の優勝という快挙を成し遂げました。同年の全日本選手権では史上初の2度のトリプルアクセルに成功するも、2年連続2位と優勝には届きませんでした。それでも、15歳ながら世界で堂々と戦っていた少女にはトリノオリンピックでのメダル獲得という期待がかけられましたが、それを阻んだのが不運にも87日足りなかった年齢制限というルールでした。

バンクーバー五輪で3度のトリプルアクセルを成功させて銀メダル獲得

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自身が出場できなかったトリノ五輪で、荒川静香が金メダルに輝くと、さらにフィギュアブームが加速します。それに応えるかのように、浅田真央も結果を残していきます。2006年に全日本選手権で初優勝すると、そこから圧巻の4連覇を達成します。2008年の四大陸選手権で初出場初優勝、そして世界選手権でも優勝と安定して成績を残していきました。続くグランプリファイナルも、2度目の優勝など、出場する大会のほとんどで表彰台に上り、日本の第一人者としてバンクーバー五輪日本代表に選出されました。

まさに日本中の期待を背負い、夢の舞台に降り立ちます。最高潮の緊張感の中、浅田は、伊藤みどりに続いて、オリンピックでトリプルアクセル成功させた二人目の選手となりました。さらに、驚くことにショートプログラム(SP)で1度、フリーで2度と史上初めてトリプルアクセルを3度成功(後にギネス世界記録に認定)させます。自己ベストを更新しましたが、キム・ヨナ(韓国)がSP、フリーとも歴代最高得点を更新する得点をマークし、惜しくも銀メダルに終わりました。

ソチ五輪では絶望の淵から這い上がり、圧巻の演技を披露

バンクーバー五輪を終えて1ヶ月もたたない2010年3月、世界選手権でキム・ヨナを破って2年ぶりの金メダルを獲得するなど、浅田真央は早くも悲願のオリンピック金メダルに向けて始動します。さらなるジャンプの精度を高める為に、かねてから依頼していた佐藤信夫のコーチを仰ぐことになりましたが、出口の見えないスランプに陥ります。さらに、2011年12月には最愛の母を病気で亡くすという悲しみも背負い、試練が続きました。それでもコーチの教えを守り、最大の武器トリプルアクセルをも一時封印し、基礎練習に没頭します。こうした地道な努力が、ソチ五輪へ向けたシーズンで花開きます。日本選手権では2度目の連覇を達成する6度目の優勝を飾りました。特に2012年は、国際大会も含めて6戦5勝と完全復活を果たします。2013年も、史上初となるグランプリシリーズ全制覇と、完全に2度目のオリンピックに照準を合わせることに成功しました。

しかし自身2度目のオリンピックには強大な魔物が住んでいました。同大会から導入された団体戦でトリプルアクセスを失敗するという波瀾のスタートとなります。するとシングルスのSPでも転倒と、らしくない演技が続き、まさかの16位と経験の無い順位に沈みました。メダル獲得は絶望的となり、翌日の競技が心配されるほどの放心状態に陥ります。しかし5歳からスケートを続けてきた天才は、わずかな時間で平静を取り戻し、フリーで圧巻の演技を披露します。代名詞であるトリプルアクセルはもちろん、全6種類、8度の3回転ジャンプを成功させるパーフェクトな演技を披露して観客を圧倒させます。順位こそ総合6位に終わりましたが、世界中を感動の渦に巻き込みました。

2017年4月ついに競技選手を引退し、プロスケーターへ

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浅田真央は、ソチ五輪後の世界選手権で自己ベストを大幅に更新するスコアで3度目の優勝を飾りました。しかし2014年5月から1年間の競技生活休養を発表します。そのまま現役引退という選択肢もありましたが、2015年5月、現役続行を宣言し復帰します。実は、自身が憧れた伊藤みどりと全く同じ軌跡でもありました。復帰初戦の団体戦ジャパンオープンでは、自己ベストに迫る得点をたたき出して女子1位と貫禄を見せると、グランプリシリーズ中国杯では優勝を飾り、完全復調を予感させました。

しかし長年フィギュア界をリードしてきた肉体はぼろぼろで、特にトリプルアクセルにこだわり続けてきたこともあって左膝は悲鳴を上げていました。2016年は不振が続き、12月の全日本選手権では自己ワーストの12位と惨敗します。そしてこの試合が浅田の最後の公式戦となりました。2017年4月、自身のブログで現役引退を発表すると、20年近く、第一線でリードしてきた功労者に対し、世界中からその引退を惜しむ声が寄せられました。競技選手としては引退しましたが、今後も、プロスケーターとしてリンクに立ち続けていきます。


VictorySportsNews編集部