前田健太について

名前前田健太(マエダケンタ)
生年月日1988年4月11日
日本
出身大阪府
プロフィール水泳、サッカーなど何をやらせても万能な幼少期を過ごし、小学3年生からは野球に絞る。早くからプロ入りを意識し、PL学園時代には、1年夏から甲子園のマウンドを経験するという、まさに桑田2世を実現していました。

2006年、ドラフト1位で広島東洋カープに入団すると4年目に一気に頭角を現して、投手3冠に沢村賞を受賞。以後、広島のエースとして活躍し6年連続二桁勝利をマークしました。

2016年からは、満を持してメジャーリーグ挑戦を表明し、ロサンゼルス・ドジャースと契約。ルーキーながら16勝をマークして、地区優勝も経験した。PL学園卒。

NPB時代の通算成績は、218試合、97勝67敗、防御率2.39、1,509回2/3、1,233奪三振。最多勝2回、最優秀防御率3回、最多奪三振2回、沢村賞1回。MLB時代の通算成績は32試合、16勝11敗、防御率3.48、175回2/3、179奪三振(日米の成績はともに2016年まで)。右投右打、185cn、79kg

水泳選手としても世界を狙える逸材は、野球に絞りプロを意識

大阪府で生まれた前田健太は、幼少期からあらゆるスポーツに精通していました。2歳から体操教室に通うと、その後は水泳も始め、幼稚園からはサッカーにも夢中になりました。小学生からソフトボールも加わりましたがどのスポーツも万能で、一時はサッカーでプロを目指すことや、小学3年生には水泳で西日本チャンピオンにまで登りつめ、コーチから共に世界を目指そうと誘われるほどでした。

しかしその心は大きく野球に傾き、岸和田イーグレッツに入団すると投手として実力を付ける為に、夜のランニングを毎日欠かしませんでした。そして4年生の文集には、「PL学園に入ってプロ野球選手になる」と書いたほど、明確にプロを意識します。6年生には西日本で優勝を果たすなど、31個のタイトルを手にしていました。それでも水泳だけは13歳まで続けており、自身の肩甲骨や肩周りの柔らかさを養いました。有名となったマエケン体操や、怪我が少ないというルーツもまさに水泳が起因しています。中学時代も、野球の実績は突出しており、日本選抜に選出されると、世界大会優勝に貢献しMVPをも手にしていました。

PL学園に進学すると、桑田2世と称され甲子園でも大活躍

夢のプロ野球選手への近道と考えてPL学園に進学すると、1年生ながら非凡な才能を発揮します。憧れていた桑田真澄同様に1年夏からベンチ入りを果たすと、大阪大会の決勝再試合という大一番で先発に抜擢されました。すると同試合で完投勝利を収め甲子園行きを自ら決めて、早くも桑田2世と称されるようになります。その実績を買われ、本戦でも先発マウンドを託されましたが、2回に打球を足に受けるというアクシデントもあって、5回3失点で負け投手となってしまいました。

前田健太が、次に甲子園の土を踏んだのは3年春でした。そして今回は「PLに前田あり」を改めて印象付けます。初戦で16奪三振完投勝利を挙げると、続く2回戦では完封勝利を飾り、準々決勝ではホームスチールを見せるなど野球センスを惜しみなく発揮しました。3年最後の夏はエースに4番という大黒柱で挑みましたが、準々決勝で敗退し、甲子園での再アピールはできませんでした。

一軍未経験の未完の大器に、エースナンバー18が与えられる

最速148キロを誇る完成された投手だった前田健太は、広島東洋カープから、2006年ドラフト1位指名を受け入団しました。実は同年の高校生ドラフトでは、田中将大に4球団など、11球団が4人の高校生に指名が集中し、広島のみが単独指名でした。

同期の田中がルーキーイヤーに楽天一軍で活躍していましたが、球団は二軍中心の育成を貫きました。ここでしっかりとローテーション投手として経験させたことで、後に大きく花開く土台が形成されます。そして、2年目のシーズンを迎えるにあたって、前田は前年引退した佐々岡真司のエースナンバー18を引き継ぐことになりました。一軍で一度も投げていなかった投手に対し、まさに異例の出来事でしたが、逆に球団の期待の大きさが伺えました。

順調に頭角を現し、広島のエースから日本のエースへと成長

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前田健太は、その背番号に恥じることない活躍を続け、自分のものとしていきます。2年目に初勝利、初完封などを記録し、後半戦には主力投手の一人としてローテーションを守り二桁勝利には届きませんでしたが9勝をマークします。3年目は負け越したものの、チームトップ、そしてリーグ3位の193イニングを投げ抜き、大きな自信をつけました。

そして4年目の2010年、大きく飛躍します。初の開幕投手を勝利で飾ると、そのまま好調を維持し、前半戦だけで初の二桁勝利を達成しました。交流戦でも驚異の防御率1.05を記録し、日本のエースといわれたダルビッシュ有(当時日本ハム)との投げあいにも勝利します。結局、史上最年少、球団史上初で最多勝・最優秀防御率・最多奪三振の投手タイトル3冠に輝きます。さらには自身初の沢村賞も手にし、名実共に広島のエースとなりました。

以降は、広島のみならず、日本のエースへと成長していきます。いまだ暗黒時代が続く広島において、毎年のように二桁勝利をマークし、2012年には、史上74人目のノーヒット・ノーランも達成します。2012年から2年連続で最優秀防御率のタイトルも奪うなど球界のエースとしても名を馳せました。事実、2013年のWBCでは田中将大を差し置いて、先発の柱となり2勝1敗、防御率0.80、18奪三振の成績で大会公式ベストナインに選出されました。こうした活躍は日本のみならず世界からも注目され、先輩たち同様にメジャーリーグへの挑戦を口にするようになっていきました。

夢を実現させて海を渡ると、日本人タイ記録の16勝をマーク

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前田健太が海を渡るためには、海外FA権の行使もしくは球団が認めていないポスティングシステムが必要でした。しかし旬な時期に挑戦するためには、ポスティングしかありません。球団と何度も相談するとその応えは、「エースらしい活躍をすれば検討する」ということでした。すると、2015年、まさにそれに見合う活躍を見せます。レジェンド黒田博樹が復帰した同年、チームは4位に沈んだものの、15勝で最多勝を獲得したほか、2度目の沢村賞も受賞しました。

まさに文句なしの成績を収め、ついに同年オフ海を渡ります。日本で6年連続二桁勝利に、2度の沢村賞、5度のゴールデングラブ賞と投手センス抜群の右腕にはメジャー球団多数が注目しました。そして、その中からかつて黒田も在籍したロサンゼルス・ドジャースを選択し8年契約という異例の契約でメジャーの門を叩き、広島時代と同じ背番号18を背負いました。

日本球界で97勝をあげていたルーキーは、初登板で早くもその実力を披露します。投げては6回無失点、打っては本塁打と投打で活躍し、初勝利をマークしました。その後もローテーションを守り、リーグ5位、新人日本人投手歴代1位タイ記録となる16勝を挙げました。しかし早い回での降板も多く、目標としていた200イニング投球回数は実現せず、来シーズンへの課題を残しました。

VictorySportsNews編集部

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