内村航平について
©Getty Images名前 | 内村航平(ウチムラコウヘイ) |
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生年月日 | 1989年1月3日 |
国 | 日本 |
出身 | 福岡県 |
プロフィール | 体操一家に生まれ、3歳から両親が営む教室で体操を始める。高校時代から上京し朝日生命体操クラブで体操を続けると、高校総体優勝。
日本体育大学時代から、日本選手権や世界大会で活躍するようになると、2008年北京五輪代表に選出。同大会で団体、個人総合銀メダルを獲得、以後も2大会連続で日本のエースとして五輪出場し、個人総合2大会連続金メダル、2016年リオでは悲願の団体金メダルを獲得。全日本選手権10連覇中、世界選手権6連覇中。東洋高校、日本体育大学卒、コナミスポーツ&ライフ入社(2016年11月退社)現在はリンガーハット所属。162cm、54kg。 |
絶対的世界王者も、決して神童と言われる子供ではなかった
©Getty Images内村航平は、まさに体操を始めるにはもってこいの環境でこの世に生まれました。父・和久は高校時代インターハイで体操種目別で優勝経験があり日本体育大学出身、母・周子も元体操選手であり、1992年にはこの両親で「スポーツクラブ内村」を長崎県でスタートしていました。そして3歳にして疑うことなく体操を始めることになりました。
後に天才の名をほしいままにする内村ですが、決して神童と呼ばれていたわけではありませんでした。どちらかといえば覚えも遅く、ごく普通の子供でした。しかし努力の天才であり、普通なら飽きてしまうような練習も毎日欠かすことなく続けていきます。そして、この体操教室には練習の為トランポリンが常設しており、これが後の演技にこの上なく貢献することになるのでした。
地元の中学を卒業すると、上京し東洋高校に通いつつ、朝日生命体操クラブに入門しました。同クラブは、自身が憧れた塚原直也の母親たちが発足させた体操クラブチームでした。すると2006年には高校総体で個人総合1位となるなど頭角を現し、全日本選手権にも出場(8位)します。そして父と同様、日本体育大学へ入学しました。
世代交代の主役となり、北京五輪で個人総合・団体で銀メダル獲得
大学時代以降、内村航平は強さを存分に発揮していきます。もちろん当面の目標としては、2008年の北京五輪出場でした。第1選考となった2007年の全日本選手権では7位で、優勝はアテネ五輪団体金メダル獲得時もエースだった冨田洋之でした。2位以下に大差をつける圧勝でまだまだ内村ら学生たちとの差は歴然でしが、ここから意地を見せ付けていきます。2次選考では2日間とも冨田を抑えてトップに立つと、最終選考のNHK選手権では冨田に告ぐ2位まで登りつめました。自身が憧れた塚原が選考に漏れてまさに世代交代を印象付けます。こうして初の五輪代表に選出されましたが、世間を驚かすのはこれからでした。
最年少19歳で北京五輪団体戦メンバーに選ばれると、終始安定した演技で日本選手最高の得点をマークし、団体の銀メダル獲得に大貢献します。その勢いのままに個人総合でも出場しますが、あん馬で落下し大きく順位を落とします。しかしそこから跳馬で16.3300の高得点をたたき出すなどごぼう抜きし、4位入賞した冨田すら交わして銀メダルを獲得しました。同競技における10代でのメダル獲得は、史上初の快挙でした。
ロンドン五輪で初の個人総合金メダルも、目標の団体戦は銀メダル
一気に全国区となった内村航平は、2008年の全日本選手権で個人総合初優勝を飾ります。同大会を最後に冨田が引退したこともあって、名実ともに日本のエースとなりました。エースらしく、ゆか、あん馬、つり輪、跳馬、平行棒、鉄棒のすべてにおいてオールラウンダーとなっており、ここから国内外のあらゆる大会で驚きの連勝記録を打ち立てていきます。目標としていたロンドン五輪開幕までの間に、全日本選手権を2008年から5連覇、そして世界体操競技選手権も2009年から3連覇とまさに無双状態となり2度目の五輪を迎えました。
戦前の予想でも内村の金メダルは確実と評されて、2012年8月にロンドン五輪が開幕しました。騒ぐ世間をよそに自身は、何よりも団体戦での金メダルを目標に挑みましたが、思わぬ不調に大苦戦します。さらにライバル中国は、各種目にスペシャリストを揃えており、どちらかというとオールラウンダー中心の日本は大きく遅れをとり、団体戦は2大会連続の銀メダルに終わりました。失意の中、個人総合に挑むことになりましたが、世界王者ぶりを大いに発揮します。超がつくほどの安定感で2位以下を大きく引き離し、見事に期待通りの金メダル獲得を実現しました。
誰にも真似できないと言われる美しい空中姿勢と微動だにしない着地
©Getty Images体操競技は、技の難易度、美しさ、安定性などで採点されるためミスが命取りとなります。中でも競技終わりの着地の印象度は大きいものです。負け知らずの内村航平は、着地に定評があり、そこに至るまでの美しい空中姿勢には一日の長があります。そのルーツを探ると、幼少期のトランポリンでの練習が挙げられています。トランポリンで何気なく練習を重ねたことで、動体視力が恐ろしく鍛え上げられていたのです。どれだけ速く回転していても、自分自身がどこにいるのかをスローモーションのように正確に把握でき、そのことが着地の安定性を引き出していました。この尋常な空中感覚は、2012年7月15日に放送されたNHKスペシャル「内村航平 驚異の“空中感覚”」でも語られています。
リオ五輪では悲願の団体金メダル、個人総合連覇で2冠を達成
©Getty Imagesロンドンで団体での金メダルを逃し、4年後の奪還を心に誓った内村航平は、その後も第一線で活躍します。2008年から連続で獲得してきた全日本選手権タイトルも9年に伸ばし、世界体操競技選手権も2015年で6連覇を達成と負け知らずで過ごしました。自身の強さは微塵も揺らぎませんでしたが、頼もしい後輩達も着々と成長していました。4歳下の加藤凌平は2013年の世界体操競技選手権で2位となるなど、オールラウンダーとして大きく頭角を現し、8歳下の白井健三に至っては、誰にもまねることの出来ない「ひねり」の技術で世界をも驚かせていました。
最強のメンバーがそろった日本チームは、悲願の団体金メダルに向けて2016年リオデジャネイロ五輪に臨みました。エース内村は全6種目で演技し、全て15点を超える高得点をマークします。加藤、白井も持ち味を発揮すると、2大会連続金メダルの中国、そしてロシアを大きく引き離す完勝でアテネ五輪以来、悲願だった団体での金メダルをついに獲得しました。続いて出場した個人総合では、追う立場となり逆転はきわめて難しい状況でしたが、最終種目の鉄棒で奇跡の大逆転。実に0.099差という僅差で、2大会連続の個人総合金メダルを手にしました。
日本初の体操プロ転向して臨んだ全日本選手権では薄氷の10連覇
©Getty Images内村航平は、2016年11月に日本体育大学卒業後、5年半在籍したにコナミスポーツ&ライフ(現コナミスポーツクラブ)を退社し、日本体操界初のプロ転向を宣言しました。次期2020年の東京五輪に向けて、より体操競技を広めるという普及活動に重きを置くといいます。
もちろん選手として引退したわけではなく、2017年4月には28歳にして全日本選手権に出場しました。若手の突き上げは激しく、今回ばかりは優勝が途切れると思われました。最後の鉄棒競技を残した段階では、着地でほんの少しでもミスがあれば逆転できない状況に陥ります。しかし、それでも完璧な演技、着地をみせて貫禄の逆転優勝を実現します。前人未到の全日本選手権10連覇を飾り、背中の大きさを証明してみせました。