王貞治について
名前 | 王貞治(オウサダハル) |
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生年月日 | 1940年5月20日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都墨田区吾嬬町 |
プロフィール | 早実時代、春夏各2回甲子園に投手として出場し、1957年センバツでは34イニング無失点を記録して優勝を果たしました。1959年巨人に入団します。一塁手に転向、1962年一本足打法で本塁打王となり、以来1977年まで本塁打王15回達成しました。また1964年には本塁打55本の日本新記録を樹立しました。長嶋茂雄と共に、巨人9連覇に大きく貢献しました。1974年には三冠王、1977年に通算本塁打756本をマーク、ハンク・アーロンのもつ世界記録を更新し、同年第1回国民栄誉賞受賞しました。1980年11月現役を引退しました。
通算成績は、本塁打868本、19年連続30本塁打以上、4打席連続本塁打、満塁本塁打15本の記録をもつ他、三冠王2回、最優秀選手9回、打点王13回、首位打者5回獲得しました。巨人助監督を経て、1984〜1988年監督に就任しました。この間、1987年にリーグ優勝を果たした。 1994年野球殿堂入りを果たします。1995年ダイエーの監督に就任し、1999年9月リーグ優勝、10月日本シリーズで中日を破り、ダイエー創設11年目で初の日本一に導きました。1999月2度目の正力松太郎賞を受賞しました。選手と監督で受賞するのは初の快挙となりました。2000年10月リーグ2連覇を果たし、日本シリーズでは長嶋率いる巨人と対戦しました。2001年8月巨人時代から数えて監督通算800勝を達成し、2003年には2度目の日本一を達成しました。2006年には第1回WBC監督としてもチームを優勝に導きました。2008年途中に体調面を理由に監督を退任しました。 通算成績は2,831試合、9,250打数2,786安打、868本塁打、2,170打点、84盗塁、打率.301。首位打者5回、本塁打王15回、打点王13回、最高出塁率12回、MVP9回。国民栄誉賞(第1回)、正力松太郎賞4回、ベーブ・ルース・クラウン賞、中華体育協会栄誉奨章、中国文化大学(台湾)名誉理学博士号、経済界大賞(特別賞,第25回)、毎日スポーツ人賞、台湾三等大綬景星勲章を受賞しました。監督としての戦績は、2,507試合、1,315勝1,118敗74分、勝率.540。早稲田実業校卒、左投左打、177cm、79kg。 |
早実時代、甲子園優勝投手となり、鳴り物入りで巨人に入団
王貞治は、小学生時代から野球を始めました。中学時代に、偶然グラウンドを通りかかったプロ野球選手に早稲田実業入りを勧められます。その人物は、後に自身に一本足打法を伝授する荒川博でした。
その後、早実に進学すると、1年生からレギュラーとなり春夏あわせて4度甲子園に出場しました。2年春にはエースで4番として、34イニング連続無失点を達成し見事に全国優勝を飾りました。また2年夏は延長戦でのノーヒット・ノーランを達成するなどその名前は一躍全国区となります。プロ注目の的となり、獲得合戦となるも、東京で生まれ育ったこともあって巨人を選択しました。球団は高卒新人に、背番号1を与えるという破格の待遇を示し、高校優勝投手ではありましたが野手転向を言い渡しました。
一本足打法を完成させると、前人未到の巨人9連覇に貢献
1959年、高卒新人ながら開幕戦に7番一塁手として出場します。当時の4番はプロ2年目ながら主力だった長嶋茂雄でした。しかしプロとの実力差に直面し、安打すら出ません。出場11試合目に初安打となる初本塁打、また天覧試合において記念すべき長嶋との初アベックアーチとなる第4号を放ちましたが、ほとんど活躍できず三振王と言われていました。
翌年から二桁本塁打を放つも伸び悩み、当時の川上哲治監督は荒川博を打撃コーチに就任させ王貞治の育成を託すことになります。荒川は、素質十分の若者に対し様々な打法を試します。それが後に代名詞となる一本足打法でした。そして自身4年目の1962年、ついに覚醒の時を迎えました。同年は38本塁打、85打点で初めてのタイトル本塁打王、打点王を獲得しました。
1963年からはONコンビとして、前人未到の数字を積み重ねていきます。本塁打王のタイトルは、1963年から13年連続で独占しました(合計獲得数は15回)。また1964年には、後にあらゆるホームランバッターの目標にもなったシーズン55本塁打を達成します。その間、首位打者(5回)や打点王(13回)など打撃部門のタイトルを総なめにしますが、意外にも3冠王は1973年、1974年の2回に留まりました。というのも打撃2冠を獲得した年に、最後の1冠をことごとく阻止していたのは、同僚の長嶋だったのです。ONによるアベックホームランも史上最多の106本と唯一の三桁を記録しており、この中軸を擁した巨人は、1965年から1973年までリーグ優勝ならびに日本シリーズを9年連続で制しました。そして、2年連続MVPを実に4回、9度のMVP選出もプロ野球記録として輝いています。
本塁打世界記録を更新し、国民栄誉賞第1号に輝く
順調に本塁打数を積み上げていった王貞治は、ついに世界記録にまで迫ります。メジャーリーグにおいて、ハンク・アーロンがスーパースターだったベーブ・ルースの714号を捉えるとその記録を755本まで伸ばし1976年に現役を引退しました。同年、49本を積み上げて本塁打王を獲得すると、1977年、アーロンを捕らえる755号を放ち、自身3度目の50本塁打も達成しました。世界記録の達成に日本中からの祝福を受け、初の国民栄誉賞も受賞しました。
40歳にして30本塁打を放ちながらも、1980年限りで現役引退
本塁打世界記録も達成した王貞治にも、避けられない現役引退の時期が近づいてきます。39歳となった1979年はついに打撃部門のタイトルを一つも取れずに終わりました。そして翌年、40歳のシーズンは、打率が規定打席到達者の中で最下位の.236に終わり、ついにバットを置く決断をします。30本塁打、84打点は中軸が残した数字としては決して恥ずかしいものではありませんでした。しかし、ファンが求める王貞治の姿ではないと、潔く現役から退いたのでした。
巨人監督へ就任も5年間でリーグ優勝1回に終わり、事実上の解任
現役引退後は、藤田元司監督のもと3年間助監督を務め、1984年から第11代巨人監督に就任しました。前年まで3年間で2度のリーグ優勝、日本一1度と好調のチームを引き継いだこともあり監督としても大いに期待されます。しかし2年連続3位とAクラスこそ維持したもの、首位とかなりのゲーム差をつけられてしまいました。
3年目に優勝した広島とゲーム差ゼロと2位までチーム順位を上げると4年目の1987年、ついにリーグ優勝を実現しました。2年目の桑田真澄がエース級の働きをし、鹿取義隆をストッパーに固定した投手陣が安定します。打率3割打者も5人と投打のバランスが整い、独走優勝を飾りました。しかし日本シリーズでは西武ライオンズに敗れ、巨人監督時代は日本一を達成できませんでした。連覇を狙った1988年は首位と12ゲーム差の2位と結果を残せず事実上の解任となりました。
ホークスを常勝軍団へ導き、第1回WBCでも日本代表監督として優勝
1988年を最後にプロ野球界から遠ざかっていましたが、1995年シーズンから再度プロ野球界にf復帰します。しかし新しくまとったユニフォームは、パ・リーグの福岡ダイエーホークスでした。そして14年チームの指揮を振るい長期政権となりました。
1989年に南海ホークスは、福岡ダイエーホークスとして生まれ変わりましたが、しばらくの間連続Bクラスから抜け出せない時期での監督就任となりました。しかし地元の有力選手を毎年のようにドラフトで獲得し、チームを根本から変えていくと、1998年には南海時代から20年続いていたBクラスを脱出します。そしてホークス監督5年目の1999年、ついにリーグ優勝を実現し、初の日本一にまで登りつめました。2000年もリーグ連覇を果たし、同年はセ・リーグを制した長嶋巨人とのON監督対決が実現します。ミレニアム決戦として世間の盛り上がりは最高潮となり、連勝スタートするもそこから4連敗を喫し軍配は巨人に上がりました。その後は再び2003年に2度目の日本一を達成するなどチームはいつしか優勝争いの常連となっていました。
2006年、第1回ワールドベースボールクラシック(WBC)が開催されると、ホークス監督と日本代表監督を兼任します。イチローも率先して参加した大会で、絶体絶命の状況から奇跡的に決勝リーグ進出を果たしました。すると準決勝の韓国では采配もずばり的中し、決勝へ進出しました。そして決勝ではキューバを破り、見事に優勝を飾りました。その後もホークスの指揮を執ると、10年連続Aクラスを達成するなど常勝軍団への仲間入りに尽力しました。2008年途中に体力的な問題を理由に、シーズン途中で監督を退きました。