工藤公康について
名前 | 工藤公康(クドウキミヤス) |
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生年月日 | 1963年5月5日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛知県豊明市 |
プロフィール | 久方中から名古屋電気高に進学。1981年の夏の甲子園では対長崎西高戦で史上20回目のノーヒット・ノーランを達成、金属バットになってからは初の快挙だった。ノンプロ入りを表明していたが、西武がドラフト6位に指名し1982年入団。1985年防御率2.76で防御率1位、1987年には15勝4敗、防御率2.41で勝率1位と防御率1位を獲得。1991年にも勝率1位、1993年にはパ・リーグMVPを獲得。1994年シーズン終了後にFA宣言し、ダイエーに移籍。1998年9月、通算150勝を達成。1999年9月、通算2000奪三振を達成。同年は防御率1位、奪三振王を獲得するなど活躍しダイエーの日本一に貢献、パ・リーグMVPも受賞。同年11月FA宣言し、12月巨人に移籍。2000年にはチームの日本一に貢献し、現役投手では最高額となる3億円で契約更改。同年史上初となる3球団でのゴールデングラブ賞を獲得。2004年、史上23人目の通算200勝を達成。その後、2007年からは横浜、2010年は西武で過ごし、歴代1位タイの実働年数記録を29年に伸ばし、現役引退した。2015年からは、福岡ソフトバンクホークスの監督に就任し、初年度に日本一を飾る。通算成績は635試合、224勝142敗3S、10ホールド、防御率3.45、3,336回2/3、2,859奪三振。最優秀防御率4回、最高勝率4回、最多奪三振2回、MVP2回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回、正力松太郎賞2回、報知プロスポーツ大賞。名古屋電気高卒、左投左打、176cm、80kg。 |
甲子園でノーヒット・ノーランを達成し、強行指名した西武へ入団
工藤公康は、5人兄弟の4番目として生まれ、野球好きの父によって半ば強引に野球を始めさせられました。中学時代はハンドボール部に所属していましたが、強肩を買われて野球部へ移籍するという人生初めてのトレードを味わいました。貧しい家庭であった為、高校進学はせずに就職しようと考えていたところ、特待生制度を知り、名古屋電気高校(現・愛知工業大学名電高校)に入学しました。
同校3年次の夏、見事に甲子園に出場し、本戦でも快挙を成し遂げました。初戦の長崎西高校戦ではノーヒット・ノーランを達成した上、先頭打者に四球を一つ与えただけで16奪三振、これは金属バット時代では初の快挙であり、一躍ヒーローとなりました。その後も快投は続き、4試合39イニングで56三振を奪い、チームのベスト4進出に貢献しました。工藤公康の名前は一気に全国に広がりましたが、父親の意向が強く熊谷組への就職を表明し、ドラフト指名を拒否しました。しかし、その中で強行指名したのが西武ライオンズでした。同年まで監督であり、後に球界の寝業師とも言われた根本陸夫が説得に当たり、急転プロ入りが決定しました。
西武ライオンズでは、黄金時代を支えたエースとして活躍
プロ一年目から、西武監督となった広岡達朗に可愛がられ、ルーキーイヤーながら中継ぎとして多くの登板を重ねます。しかし当時は投球スピードが遅く伸び悩んでいた時期でもありました。3年目にアメリカに野球留学すると、現地のハングリーさや野球への取り組み方に影響を受け、意識改革が起こりました。帰国後は宮田征典の指導を受け、1985年から先発投手として球速も10キロ近くあげて大きく独り立ちしました。
同年、最優秀防御率のタイトルを取ると、1986年には初の二桁勝利をマークします。また強心臓で大舞台には滅法強く、1986年から2年連続、日本シリーズでMVPを受賞しました。しかし1989年からは一転して不調に陥ります。その大きな原因は肝機能障害で、選手生命はもとより命の危険性すら指摘されるほどでした。そこから、夫婦二人三脚での体質改善に取り組みそれを克服し、さらには1991年から4年連続二桁勝利と復活しました。結局、第一線で活躍し始めた1985年から1994年までの10年間で、チームは9度のリーグ優勝に6度の日本一を達成します。まさに黄金時代を築き上げ、その間7度の二桁勝利とエース級の活躍を見せました。
ダイエー時代は、万年Bクラスチームを日本一へと導く
1995年からの工藤公康は、在籍球団が変わるジャーニーマンとなりました。1994年限りで西武を退団し、FAによって福岡ダイエーホークスへ移籍しました。当時のホークスは、前年まで自身のプロ入り恩師である根本陸夫が監督を務めてチームの土台を作り、さらに裏方に回り再建に乗り出していた時期でした。工藤公康は投手陣の大きな柱として期待されて入団しました。
いきなり12勝を挙げる活躍を見せますが、その年は自身初のBクラスを経験しました。その後は隔年での活躍となりましたが、城島健司をチームの正捕手に育成するために大きく尽力しました。打たれるとわかっていても、出すサインに首を振ることなくまさに実戦で経験を積ませました。すると移籍4年目の1998年には、連続Bクラスを20年で止め、翌年には自身も11勝をマークし、福岡移転後初の優勝までたどりつきました。ナインのほとんどにとって初となる日本シリーズでは、初戦に先発して13奪三振完封と完璧にチームに流れを引き寄せ、そのまま日本一も達成しました。
優勝請負人として、自身3球団目の巨人でも2度の日本一に貢献
次に工藤公康が選んだのは、初のセ・リーグの舞台でした。西武、ダイエー時代の実績から優勝請負人と呼ばれ、3年間優勝から遠ざかっていた巨人の切望により入団が決まりました。そして36歳で迎えたシーズンでも、12勝と実力を発揮して優勝に貢献しました。日本シリーズでは、連覇を決めた古巣のダイエーと対戦し、2年連続で初戦に先発しました。その試合では勝利は収められませんでしたが、チームは日本一を達成しました。同年は、セ・リーグで初めてのゴールデングラブ賞にも輝きましたが、それは西武、ダイエーに続く3球団での史上初の達成でもありました。
2002年もリーグ優勝、さらには古巣西武を破っての日本一に貢献と、優勝請負人の面目躍如の働きを見せました。2004年には、史上23人目の通算200勝を飾りましたが、41歳3ヶ月という当時史上最年長で、自身プロ初本塁打に完投という記録尽くしの勝利でした。
古巣西武に戻り、歴代1位タイの実働29年を実現して現役引退
2004年から2年連続二桁勝利をマークしましたが、2006年は不調に陥り3勝に終わります。すると同年オフ、自らの意思ではない初めての移籍を経験しました。巨人が門倉健をFAで取得したことに伴う人的補償で、横浜ベイスターズへ移ることになりました。横浜初年度の2007年は、先発として7勝と存在感を見せると、実働28年目となった2009年は中継ぎに転向して46試合に登板しました。しかし同年上げた224勝目が最後の勝ち星となり、球団からは戦力外通告を受けました。
その後も現役にこだわる工藤公康に、古巣である西武がチャンスを与えました。実働年数記録が29年に更新される10試合の登板したものの、やはり年齢には勝てませんでした。そして西武からも戦力外通告を受けました。それでも現役続行を目指してトレーニングを続けましたが、2011年ついに29年間のプロ野球選手生活に別れを告げました。
ソフトバンクホークスの監督としても日本一を達成
2015年からは、福岡ソフトバンクホークスの一軍監督に就任しました。前年、秋山幸二監督の元、日本一を達成していただけにそれは異例とも言える監督交代でした。日本一のチームを引き継ぐというプレッシャーの中、豊富な戦力で交流戦を優勝するとそのまま一気に走り抜け、日本シリーズも勝ち抜き、自身が在籍した西武以来となる連覇を飾りました。常勝軍団と化したソフトバンクは、2016年も序盤から圧倒的にパ・リーグをリードしました。しかし、中盤から日本ハムの猛追撃にあい、まさかの大逆転を許し3連覇を逃してしまいました。その雪辱を晴らすべく、2017年シーズンも監督として指揮を振るっています。