緒方孝市について
名前 | 緒方孝市(オガタコウイチ) |
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生年月日 | 1968年12月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 佐賀県鳥栖市 |
プロフィール | 鳥栖高では主将を務め、高校通算打率.357。1987年ドラフト3位で広島に入団。1988年9月対阪神戦でプロ入り初本塁打を放ち一軍デビュー。1990年より一軍に定着し、6月対阪神戦で本塁打を連発するが、同月右ヒザ骨折に見舞われる。1995年、前田智徳の負傷によりチャンスを得ると、外野手レギュラーを獲得。同年から3年連続盗塁王も獲得した。以後、度重なる怪我を負うも、長打力も加えて長らく広島レギュラー外野陣務める。FA権利を取得するも、宣言せずに残留し、引退まで通算22年を広島で過ごした。2009年に現役引退後、即コーチに就任。2015年からは広島一軍監督を務め、2016年には25年ぶりの優勝を実現した。1996年タレントの中条かな子と結婚。通算成績は1,808試合、5,342打数1,506安打、241本塁打、725打点、268盗塁、打率.282。盗塁王3回、ゴールデングラブ賞5回、最優秀監督賞1回。鳥栖高卒、右投右打、181cm、80kg。 |
甲子園出場は実現せずも、プロ野球選手としてスタートラインに立つ
佐賀県で生まれた緒方孝市は、幼い頃から野球に魅せられます。テレビでプロ野球中継を見る事は大きな楽しみとなり、その頃からプロ野球選手になることを夢見ていました。中でも最も憧れを持ったのが、当時広島東洋カープの核弾頭として活躍していた高橋慶彦でした。高橋選手は小柄ながらも、俊足巧打で広島黄金時代を牽引し、3度の盗塁王に輝いていました。
中学卒業後、地元の鳥栖高校に進学すると、来る日も来る日も野球の練習に明け暮れます。努力の虫となると、着実に野球選手として成長し、3年時には主将を任されました。甲子園を目指して戦いましたが、夏の佐賀県予選はベスト4止まりとなり、その夢は実現しませんでした。しかし1987年のドラフト会議で、広島東洋カープから3位指名を受け、子供の頃からの夢であったプロ野球選手になることは実現されました。そして、憧れた高橋選手同様に、最も自信があった足で勝負することを誓いました。
悩める8年目、前田智徳の代役としてレギュラー獲得すると3年連続の盗塁王
緒方孝市は内野手として入団しましたが、直後に外野手へ転向します。1年目に初安打を本塁打で飾り、2年目には野球留学するなど球団として期待の若手でした。しかし3年目の1990年には骨折を負い、出場機会は32試合に終わります。その後も、一軍として抜擢され続けるも度重なる怪我が原因で、レギュラー獲得に至らずあっという間に7年もの歳月が流れてしまいました。
しかし1995年に大きな転機が訪れます。最愛の母が52歳の若さでこの世を去ると、当時の三村敏之監督が「緒方の母は緒方を二度生んだ」と表現したほど練習への取り組み方が一変します。
同年は絶対的な外野手レギュラーだった前田智徳が、5月にアキレス腱断裂という大怪我を負い戦線離脱してしまいます。そしてその穴を埋めるようにレギュラーに定着したのが緒方でした。規定打席には到達しなかったものの、打率.316を残し、47盗塁で初の盗塁王にも輝きます。すると、前田復帰後もレギュラーから外されることはなくなり、1996年は50盗塁、1997年も49盗塁と、3年連続で盗塁王に輝きました。まさに幼少期に目標としていた高橋慶彦選手に一気に肩を並べたのです。その盗塁技術はリーグ随一とも言われ、当時捕手として毎年のように盗塁阻止率No.1だった古田敦也ですら手を焼くランナーでした。またその俊足を生かした外野守備も鉄壁で、1995年から5年連続でゴールデングラブ賞を受賞しました。
怪我でスピードを奪われ、トリプルスリーも盗塁数だけ届かず
緒方孝市は、3年連続の盗塁王を決める傍らで長打力も身につけ、1996年には23本塁打も記録していました。1998年も、開幕から順調に数字を伸ばしていた矢先に、その後の野球スタイルを一変する大怪我を負ってしまいます。甲子園球場における外野守備で、フェンスに激突し右足首捻挫により1ヶ月の戦線離脱を余儀なくされました。そして同年は17盗塁と大きく数字を落とし、4年連続の盗塁王を逃します。
1999年は開幕から打撃絶好調で本塁打を量産しました。打率3割、30本塁打も超えて、あと30盗塁さえクリアすれば、トリプルスリーの達成でしたが、前年に続いて18盗塁に終わります。さらに翌年からは、盗塁数が二桁すらなくなりました。まさに、足首捻挫によってスピードを奪われ、ゴールデングラブ賞の受賞も同年が最後となりました。しかし広島東洋カープは、この怪我の繰り返しを防ぐ為に、新本拠地マツダスタジアムの外野フェンスを、絶妙な高さの分厚いラバーで覆います。
FA宣言せずに残留し、最後まで広島戦士として通算22年を過ごす
1999年、キャリアハイの36本塁打を放った緒方孝市はFA権を取得しており、そのオフは大注目となりました。宣言前から読売ジャイアンツや地元九州の福岡ダイエーホークスなどが次々と獲得に名乗りを上げます。しかし、広島への想いは揺るがず、宣言せずに残留することを選択しました。そして2000年から選手会長に就任するも、またしても怪我によりその後の2年間は出場機会が激減してしまいました。
年齢的なことから限界説も出始めましたが、2002年からレギュラーとして復活します。多少の怪我こそあったものの、4年間で3度の打率3割を達成し、25、29、26、21本と100本以上の本塁打を積み上げました。しかし37歳で迎えた2006年シーズン序盤、骨折によって戦線離脱し、ついに引退という文字がちらつき始めます。コーチ兼任になり何とか現役を続けましたが、度重なる怪我はもう回復すらしなくなります。そして2009年限りで現役を引退しました。
広島監督に就任すると、25年ぶりのリーグ優勝を実現
引退後、時間を置くことなく広島のコーチに就任します。そして2015年からは、野村謙二郎から引き継いで一軍監督に就任しました。現役時代、広島は1991年に優勝をしていましたが当時はレギュラーではありませんでした。そして以後一度も優勝することなく1998年から引退するまで、12年間オールBクラスという暗黒時代を過ごしました。
しかし監督2年目の2016年、25年ぶりのリーグ優勝を実現させました。生え抜きの若手選手たちが育ち、黒田博樹、新井貴浩らかつての同僚が精神的支柱としてチームに戻りバランスがいいチームを築き上げました。序盤から独走し自身が現役時代に味わえなかった優勝を指揮官として実現し、今度は黄金時代を築こうと2017年も指揮を執っています。