上原浩治について

名前上原浩治(ウエハラコウジ)
生年月日1975年4月3日
日本
出身大阪府寝屋川市
プロフィール小学野球・寝屋川アスナローズで野球を始める。東海大仰星高で野球部に所属し、外野手。大阪体育大学進学後は1年で大学全日本代表、2年秋には全日本代表に。1997年インターコンチネンタル杯では最優秀投手に選ばれた。1998年阪神大学リーグ開幕戦でリーグ3人目のノーヒットノーランを達成した。同年同リーグ新記録となる通算36勝を達成。同年12月巨人にドラフト1位で入団。

同年新人最多連勝記録13を塗り替え15連勝を記録するなど、新人ながらエースとして活躍。両リーグ最多の20勝を挙げ、最多勝、最優秀防御率(2.09)、最多奪三振、最優秀勝率の投手四冠を獲得。また、新人としては野茂英雄以来9年ぶりとなる沢村賞を受賞し、新人王、ベストナインと合わせ計7冠を獲得した。1999年12月巨人ルーキーとしては史上最高の4800万円アップ、6600万円で契約更改。2000年7月対広島戦で左太もも肉離れをおこし全治4週間と診断される。186センチ、80キロ、右投右打。2000年シーズンより公式戦で1勝するごとに10万円、三振1個ごとに1900円を寄付する“19(ジューク)基金”を設立。その後も巨人のエースとして活躍し、2009年からはメジャーリーグに挑戦。

2年目からはリリーフとして適正を示し、3チームでクローザーを務める。2013年のボストン・レッドソックス在籍時は、フルシーズンで活躍しワールドチャンピオンに貢献。自身も胴上げ投手となった。2017年からはシカゴ・カブスでメジャー9年目を迎えている。

NPB時代の通算成績(2016年まで)は、276試合、112勝62敗33S、9ホールド、防御率3.01、1,549回、1,376奪三振。最多勝2回、最多奪三振2回、最優秀防御率2回、新人王、沢村賞2回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞2回、毎日スポーツ人賞(感動賞)、スーパープレー大賞。
MLB時代の通算成績(2016年まで)は387試合、19勝22敗93S、67ホールド、防御率2.53、437回2/3、522奪三振。
東海大仰星高、大阪体育大学卒、右投右打、180cm、76kg。

高校時代無名の投手が、国際大会151連勝中のキューバに勝利

上原浩治は大阪に生まれ、父が監督を務める野球チームに入って野球を始めました。陸上部に所属した中学時代も野球を続け、甲子園を目指して東海大仰星高校に進学しました。しかしこの時代に脚光を浴びる事はありませんでした。3年次からようやく投手となるも、当時は同級生・建山義紀がエースであったため、打撃投手としての役割をこなすだけであり、甲子園出場も夢と終わりました。建山はプロから注目を受けましたが、上原は体育教師を目指して大阪体育大学への進学を決意しました。

しかし受験に失敗し、1年間の浪人生活を強いられるという挫折を味わいました。翌年には合格して無事に進学しましたが、自身でも驚くほどこの1年で投手としての才能が開花していました。予備校に通いつつ、トレーニングに明け暮れることで下半身が強化され、球速も驚くほどにアップしていたのです。1年生からチームのエースとなると、大学日本代表にも選出されました。そして3年次の国際大会では当時151連勝中と無類の強さを誇ったキューバ戦に先発して勝利するという快挙を成し遂げました。こうした活躍で卒業年度には日米球団から大注目を浴び、高校時代には無名であった上原投手がドラフトの目玉となりました。

メジャーを諦めて巨人を選ぶと、7年連続開幕投手を務めるエースに成長

逆指名制度もあった当時、読売ジャイアンツとアナハイム・エンゼルスの二社択一となり、最終的には日本野球を選択しました。そして入団直後から即戦力投手としての期待をさらに上回る活躍を見せました。毎日曜日に先発する「サンデー上原」として登板を続けると、歴代4位タイとなる15連勝を記録し、新人ながら20勝を達成しました。当然同年の投手部門タイトルを独占し沢村賞も獲得しました。真っ向勝負を貫きたいという性格から、ベンチの敬遠指示に涙するという一面も見せました。

2000年からは7年連続で開幕投手を務め(巨人史上最多)、度重なる怪我と闘いながらも3年目の2002年には17勝をマークし2度目の沢村賞、最多勝、チームの日本一にも貢献しました。初年度から2004年までの7年間で6度の二桁勝利と、完全にチームのエースとして君臨していました。ただ、入団前に悩んだメジャーへの想いは強くなり、オフには再三メジャー移籍を訴えるようになりました。2002年に行われた日米野球では、MLBの名プレーヤー、バリー・ボンズからも3打席連続三振を奪っており実力も証明しました。しかし、ポスティングシステムを認めていない巨人にいる以上、海外FA権を取得する以外に、その夢をかなえる術はありませんでした。

国際大会における無類の強さはプロ入り後も変わらず、日本代表として無敗

上原は、プロ入り後も国際試合に滅法強く、敗戦投手になったことが一度もありません。その実績を買われ、一発勝負の国際試合初戦には、決まって先発起用されていました。彼には、抜群のコントロールとテンポのいいピッチング、そしてウィニングショット・フォークボールという武器がありました。

2004年のアテネ五輪における銅メダル獲得に貢献し、2006年の第1回WBCでも主力として活躍します。特に、準決勝の韓国戦では球数制限のある中、7回無失点という完璧なピッチングで日本を決勝に導きました。北京五輪出場を目指す予選、そして本戦ではその経験を買われリリーフとして代表に選ばれ無敗を継続させました。

1年限定で巨人クローザーに就任すると球団新記録の31セーブをマーク

2005年以降のシーズンは、怪我もあって二桁勝利から遠ざかります。2007年は自身の開幕からの出遅れ、そしてチームのリリーフの不調もあって、5月からはクローザーを任されることとなりました。それでも慣れないポジションをソツなくこなし、球団新記録の31セーブを記録しました。同シーズンは3敗でしたが、先発投手の勝ち星を消した事は、わずか1度という安定した火消しぶりでした。翌年から再び先発に戻りましたが、この一年の経験は、後のメジャーでの登板につながっていくことになります。

メジャーではリリーフへ転向して、2013年ワールドシリーズで胴上げ投手

2008年4月にFA権を取得した上原は、同年11月に宣言し満を持して海を渡ります。強豪ひしめくアメリカン・リーグ(ア・リーグ)のボルチモア・オリオールズで、新たな野球人生をスタートさせましたが、当初は苦難の連続でした。先発投手として初登板でヤンキースから勝利するという絶好のスタートでしたが、怪我もあって打ち込まれることも多く、初年度は2勝に終わります。2年目からは先発を剥奪されリリーフ転向を余儀なくされます。しかし上原にとってはリリーフ転向がメージャーでも活躍する新たな道でした。日本時代からコントロールは抜群で、四球は少なく三振が多い投手です。短いイニングでの安定感はメジャーでも別格でした。オリオールズ、そしてトレード移籍したテキサス・レンジャーズでの3年間で実績を示し、2013年からはボストン・レッドソックスへ移籍しました。

そして同年は、ついに頂点まで登りつめます。中継ぎとして無類の安定感を続け、6月からはチームのクローザーに抜擢されます。すると27試合連続無失点や、37人連続アウトなど完璧なピッチングで地区優勝に貢献します。ポストシーズンでも6試合中5試合に登板して1勝3セーブをマークし、シリーズMVPを受賞し自身初のワールドシリーズ進出の原動力となりました。続く世界最高峰の場面でも完璧な仕事をし、またしても胴上げ投手という栄誉に輝きます。結局同シーズンは、プレーオフも含めて86試合に登板と、メジャー全投手を通じた最多登板を最高の形で締めくくりました。

42歳でも現役でいられる秘訣は、K/BB数値で日米歴代1位を誇る制球力

その後もクローザーを務め、2016年でボストンを契約満了となるも、2017年からは前年に世界一となったシカゴ・カブスに移籍します。42歳のシーズンでも現役選手としてメジャー9年目を過ごしています。

この年齢でも最高の舞台で活躍できるのは、やはり上原の制球力が起因しています。メジャーでよく使われる指標としてK/BB(Strikeout to Walk ratio)という数値があります。これは、奪三振の数を与四球で割った数字であり、3.5を超えると優秀と言われています。日本時代も、6.68と2位以下を大きく引き離す歴代最高の数字(2017年現在)でしたが、メジャー時代、とりわけリリーフにおけるK/BB(2016年現在)は歴代1位の8.78というありえない数字をたたき出しています。

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