城島健司について

名前城島健司(ジョウジマケンジ)
生年月日1976年6月8日
日本
出身長崎県佐世保市
プロフィール高校3年間の通算本塁打は70本。駒沢大学への推薦入学が決まりプロ入りを拒否したが、1995年ドラフト1位でダイエーに入団。1996年7月ウエスタンリーグでプロ野球史上初の2打席連続満塁本塁打を放つ。8月には同リーグ新記録の22号本塁打を放ち、同年は25本塁打で本塁打王に輝く。1997年史上最年少タイでオールスターに出場。2000年4月右手人差し指を骨折するが、のち復帰し2年連続ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。2003年にはフルイニング出場し打撃3部門でキャリアハイの成績を残し、名実共に球界を代表する捕手として2度目の日本一を達成。2006年からは史上初となる捕手としてメジャーリーグへ挑戦。

シアトルマリナーズでいきなりレギュラー捕手を奪うなど攻守に存在感を見せた。しかし、3年目から不調に陥ると、2年の契約を残し日本球界に復帰。2010年からは3年間阪神に在籍した。2010年フル出場して正捕手となるも、同年の怪我が原因で選手生命を縮める。内野手転向案を拒否し捕手を続け、1年契約期間を残し現役を引退。2000年11月タレントの大藤真紀と結婚。

NPB時代の通算成績は1,323試合、4,756打数1,406安打、244本塁打、808打点、72盗塁、打率.296。MVP1回、ベストナイン6回、ゴールデングラブ賞8回。MLB時代の通算成績は462試合、1,609打数431安打、48本塁打、198打点、7盗塁、打率.268。別府大附属高卒、右投右打、182cm、93kg。

王貞治に憧れた超高校級捕手は、強行指名を受けた福岡ダイエーに入団

城島健司は、長崎県に生まれ父と共に幼い頃から野球を始めた。彼の野球人生は、王貞治との縁を感じずにはいられないものでした。4歳のときに、王選手の現役引退をテレビで見て、大きな憧れを持つようになります。小学4年生から野球をはじめると、早くも捕手を務めました。そして自身中学生のとき、王の主催する野球教室で初めて直接指導を受けました。さらに巨人入りを希望するようになり、別府大附属高へ野球留学すると、一気に打撃の才能が開花します。1年生から4番を任され、甲子園出場は逃すも高校通算70本塁打(当時最多)を放つほどに成長しました。

当時、逆指名制度はありましたが、高校生には権利が無いこともありプロ入り拒否しました。なぜなら、将来の巨人入りに備えて駒澤大学進学を取り付けていた為でした。しかし、福岡ダイエーホークスが城島を強行1位指名します。そして同年で監督を退き専務となった根本陸夫が説得に当ります。結果的に、翌年からの監督に王が就任するというジョーカーもあり、ダイエーへの入団が決定しました。しかし、アマチュア側との摩擦は避けられず、翌年からはプロ入り拒否の選手は指名できないというルールが追加されました。

一軍試合で経験し続けることで、チーム期待の正捕手へ成長

高卒ルーキー捕手は、プロの大きな壁に苦しみます。課題は、捕手にとっても最も大切な守備面であり、キャッチングのレベルの低さを指摘されました。かつての往年の捕手達からも、揃って捕手失格の烙印を押され、それは打撃にも影響しました。同年は一軍ではもちろんのこと二軍試合においても本塁打は1本も打てませんでした。それでも、二軍で英才教育を受けると技術も少しずつ身につき、2年目には二軍で新記録となる25本塁打を放ち、一軍でも初本塁打を記録しました。

1997年からは一軍で試合に出場しながら、正捕手への道をスタートさせます。そして大先輩たちが城島健司の実戦での教育をかって出てくれました。それは、西武在籍時にはエースとして黄金時代を牽引した工藤公康でした。配球の組み立てに意味を感じ取れないケースは、たとえ試合中にも関わらず、ベンチで説教が始まるほどでした。城島も試合を離れたときでも、自ら先輩やコーチの部屋を訪ね疑問点を潰すというたゆまぬ努力を続けます。こうしてホークスのレギュラー捕手となると、同年は打撃成績も上向き、打率3割も達成しました。翌年も多くの試合を経験しながら成長する機会を与えられると、福岡移転後初となるAクラス進出を果たしました。

攻守でチームに貢献する捕手としてダイエーの優勝、日本一に貢献

正捕手となって3年目の1999年は、城島健司にとって真価が問われる年となりました。4月に球団社長だった根本が死去し、さらに工藤からは1年間サインに首は振らないと宣言されます。自信を持ってシーズンに挑むと、自身初のフル出場を達成し、ダイエーは見事にリーグ初優勝、さらには日本一にも輝きました。工藤とは最優秀バッテリー賞も獲得しました。

2000年以降は、完全に正捕手として君臨し、元々得意だった打撃にも磨きがかかりました。2001年には31本塁打と初めて大台を突破し、2003年にはキャリアハイの打率.330(リーグ6位)、34本塁打(リーグ3位)、119打点(リーグ2位)とタイトル争いにも顔を出すようになります。チームとしても毎年のように優勝争いに加わり、2000年、2003年と優勝を達成しました。特に2003年には自身初めて全試合フルイニング出場を達成し、2度目の日本一に登りつめました。まさに、打てて守れる球界を代表する捕手としてその地位を不動のものにしていました。

捕手初のメジャーリーガーとして存在感を示すも途中で契約破棄

2004年はアテネ五輪日本代表にも選出され、本戦でも2本塁打と日本の銅メダル獲得に貢献しました。そして城島健司は、2006年から活躍の場をメジャーリーグに移しました。その時点で、すでに20人以上が海を渡っていましたが、捕手としての挑戦は初でした。

イチローも所属していたシアトルマリナーズと3年契約をし、メジャーリーガーとしてのキャリアをスタートさせます。苦労すると思われましたが、まずはバッティングでアピールに成功します。開幕戦からスタメン出場して2試合連続本塁打と長打力を見せました。言語の違いが影響する捕手でありながら強肩でレギュラーを獲得し、打率.291、18本塁打、76打点をマークしました。本塁打は松井秀喜の1年目を上回りました。しかし、捕手としての苦労が無かったわけではありません。日米での根本的なリードの違いなどに悩まされ、また控え捕手の台頭もあり年々出場試合数、そして成績は下降していきます。それでも移籍3年目に入ると、3年の延長契約を交わしました。するとその後打撃不振、そしてレギュラー剥奪と立場が危うくなってしまいました。しかし、2009年はシーズン前に第2回WBCに正捕手として出場し、日本の連覇に貢献します。ところが、MLBシーズンが始まると故障を繰り返し、71試合の出場に留まりました。2009年オフ、契約は2年残っていましたが契約を破棄し日本球界復帰を表明しました。

日本球界復帰するも怪我を克服できず、捕手一筋の野球人生に幕を閉じる

古巣の福岡で復帰する噂もありましたが、城島は阪神タイガースを選択しました。2010年から4年という大型契約でスタートし、メジャー時代同様1年目から成績を残します。いきなり正捕手に君臨し、144試合フル出場を果たしました。メジャー張りの座った体勢からの一塁送球を見せるなど守備面で活躍したほか、打率.303、28本塁打、91打点をマークしました。同年のゴールデングラブ賞は捕手として両リーグで受賞した初めての快挙でした。

しかし2010年終盤に膝の故障を負っていたことが判明し、手術を余儀なくされます。年齢的なことも重なり、この怪我は致命的なものになりました。攻守に大きく影響を及ぼし2年目はわずか38試合の出場に留まります。3年目は、ありとあらゆる怪我をさらに負い捕手を続けられる状況ではありませんでした。しかし、野球を始めたときから捕手一筋であり、その最後も捕手として終わることを選択します。そして2012年オフ、契約を1年残していましたが、現役引退を表明しました。日米通算で1,837安打に終わり、2,000本安打には、163本届きませんでした。引退後は、コーチなどに就任することなく野球界から離れ、趣味の延長である釣り師として活躍しています。

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