落合博満について
名前 | 落合博満(オチアイヒロミツ) |
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生年月日 | 1953年12月9日 |
国 | 日本 |
出身 | 秋田県南秋田郡 |
プロフィール | 7人兄弟の末っ子として生まれる。秋田県立秋田工業高等学校、東洋大学(中退)、東芝府中を経て、1979年ドラフト3位でロッテ入団。
1981年打率.326で首位打者になり、以後1983年まで3年連続首位打者。1982年史上最年少28歳で三冠王を獲得、1985年には打率.367、52本塁打、146打点という驚異的な成績で2度目の三冠王とパ・リーグの最優秀選手(MVP)に輝いた。1986年には史上初の3度目、2年連続の三冠王を獲得。シーズン終了後、セ・リーグへのトレードを希望し、牛島、上川らと1対4で中日に移籍した。1990年350本塁打を達成(出場1257試合目は当時の最短記録)。1991年史上11人目の400本塁打達成。今や押しも押されもせぬ球界の大打者だが、自由奔放で鳴り、日本の球界には珍しい個人主義型の選手として知られる。 1991年年俸問題で球団との交渉が決裂し、日本人選手で初めて調停委員会に調停申請、2億2千万で決着。同年5度目の本塁打王となり年俸は3億円に。1993年史上初のセ・パ両リーグ各200号ホームランを記録。同年シーズン終了後、FA(フリーエージェント)宣言し球界史上最高額の3億8千万で巨人に移籍。また和歌山県太地町には落合記念館も開館した。 1995年4月対阪神戦で史上27人目の通算2000本安打を達成。1996年7月史上7人目の500本塁打、8月同じく史上7人目の1500打点を達成。同年オフ清原のFAによる巨人移籍後、巨人を退団、2年契約の年俸3億円で日ハムに移籍。1997年5月史上2人目のセ・パ両リーグ1000本安打を達成。6月通算1524打点で歴代通算5位となる。1998年シーズン終了後引退、野球評論家となる。 2004年から中日監督に就任。いきなり優勝を飾る。2007年はシーズン2位に終わるもクライマックスシリーズで勝ち上がり、そのまま日本シリーズも53年ぶりに制覇。監督在籍8年間を、オールAクラス、4度の優勝と黄金時代を築き上げた。2013年から2017年1月まで、GM職に就任。 通算成績は2,236試合、7,627打数2,371安打、510本塁打、1,564打点、65盗塁、打率.311。首位打者5回、本塁打王5回、打点王5回、最高出塁率7回、MVP2回、ベストナイン10回、正力松太郎賞、東京都民文化栄誉賞、秋田県民栄誉賞。秋田県立秋田工業高等学校、東洋大学(中退)、東芝府中、右投右打、177cm、82kg。 |
野球選手としてはかなり遅咲きである25歳でのプロ入り
落合博満は秋田県で、7人兄弟の末っ子として生まれました。そして幼少期に、長嶋茂雄に憧れを持ち野球を始めます。しかし当時は野球よりも映画への興味がある少年でした。高校進学にはいわゆる甲子園常連校ではなく、秋田県立秋田工業高等学校を選択しました。確かに野球への情熱もありましたが、いわゆる体育会系の風習が苦手であったがためです。しかし秋田工業にもその理不尽な縦社会は存在し、入退部を実に7度も繰り返します。退部してからも、打者としての実力を買われ、4番打者に抜擢されていたからでした。
卒業後は、東洋大学へ進学しましたが、やはり風習に馴染めずわずか半年で退部し、大学も中退します。そこで地元秋田に戻りアルバイトをしていたボウリング場でプロボウラーを目指していました。しかし高校時代の恩師に勧められ、東芝府中に入社して野球を再開するようになります。すると天才的なセンスはすぐに発揮され、チームを創部後初の都市対抗野球大会にまで導き、その後は他チームの補強選手に選出されるようになりました。その頃には、日本代表にも選出されるなど、プロスカウトの目にも留まり、1978年のドラフト会議でロッテ・オリオンズ(現:千葉ロッテマリーンズ)から3位指名を受け、25歳にしてプロ入りが決まりました。
誰もが批判した神主打法を貫き、史上最年少28歳で3冠王を達成
プロ野球選手としてスタートを切った落合ですが、独自のバッティングフォームはほとんどのコーチから酷評されました。それでも神主打法で勝負を挑むと、2年目にはイースタンリーグで本塁打を量産し、一軍でも15本塁打と自身の実力を証明して見せました。
3年目の1981年からロッテのレギュラー内野手となると、まだ実績がほとんどなかったにも関わらずパ・リーグオールスターを率いていた西本幸雄監督に4番打者に抜擢されました。すると同年は初の首位打者を獲得して、その指名が本物であったことを証明します。さらに翌年にはギアを一段挙げます。チーム成績は5位と振るいませんでしたが、打率.325、32本塁打、99打点の成績で、史上最年少28歳での3冠王に輝き世間を多いに驚かせました。
自身の評価を絶大のものとした2年連続そして史上3度目の3冠王
しかし意外なほどに世間の評価は低いものでした。それは打撃3部門それぞれの数字が、過去に3冠王を獲得した野村克也や王貞治に比べて突出していないという理由からでした。すると落合博満は、さらに驚きの成績をマークして、それらの声をシャットアウトさせます。
1983年に3年連続首位打者を獲得すると、1985年には圧巻の数字で自身2度目の3冠王を達成します。打率.367、52本塁打、146打点とどの部門でも2位以下を大きく引き離す数字であり、146打点は現在もパ・リーグ記録、そして同年の得点圏打率は驚異の.492でした。さらに翌年も、2位との差こそ狭まりましたが、2年連続の3冠王を達成します。奇しくも、全く同じ時にセ・リーグにおいてもランディ・バースが2年連続2冠王に輝きましたが、3度の3冠王獲得は落合が2017年現在も唯一の記録です。
1対4の電撃トレードでセ・リーグ中日へ移籍すると持ち味を発揮
3度目の3冠王を獲得した1986年オフ、自身の理解者であったロッテ稲尾和久監督が解任され、自身もチームを後にする決意を固めます。球団は落合博満の移籍先を模索するようになり、中日ドラゴンズとの1対4という世紀のトレードが実現されました。
日本人初の1億円プレイヤーとなり、3年連続の3冠王をかけてセ・リーグでの戦いが始まります。移籍1年目は、厳しい内角攻めに苦しみ打率こそ僅差の3位でしたが、本塁打(8位)、打点(6位)は少々期待はずれに終わりました。しかし2年目以降に意地を見せます。1988年、打撃タイトルこそ獲得できませんでしたが、チームの4番としてリーグ優勝に貢献しました。さらに翌年からはともに、史上初となる両リーグでの打点王、本塁打王を獲得、そして1991年は4度目の3冠王獲得に向けて順調でしたが終盤に戦線離脱してしまいました。
FAで巨人入りし初の日本一を経験すると、最後はパ・リーグで現役引退
1993年オフ、プロ野球界に導入されたフリーエージェント(FA)制度を利用して巨人の移籍を実現させました。当時の監督は長嶋茂雄であり、落合博満が憧れていた野球人でした。その時点で40歳の年になっており、さすがに年齢から来る衰えは隠せませんでしたが、当時2年目の松井秀喜にとってはこの上ない見本でした。そして移籍1年目の1994年はプロ野球史上に残るシーズンとなります。巨人は開幕から独走しましたが中盤以降長い不振に陥ると、2位中日の猛追にあい、最終戦の直接対決を残して同率で並ぶという状況となります。世に言う伝説の「10.8決戦」でしたが、自身の先制アーチに、続く打席でもタイムリーと4番打者として試合の流れを呼び込みました。ところが3回裏の守備で、足を痛めてそのまま欠場します。しかしチームは見事勝利し、さらには日本シリーズも制覇して日本一と優勝請負人としてはまさに面目躍如でした。
1996年オフ、西武から清原和博が加入するタイミングで自ら自由契約を申し出ます。そして翌年から、最後の4球団目となる日本ハムファイターズへ移籍しました。そして両リーグでの1000本安打こそ達成しましたが、体は限界でした。最後の1年は規定打席に到達することもなく、ついに通算20年で現役引退を表明しました。
それでも遅いプロ入りにも関わらず、2000本安打に、500本塁打を達成し、通算の得点圏打率は歴代1位でした(4000打席以上)。また選球眼も抜群に優れており、通算四球数は、王貞治について歴代2位、右打者に限っては歴代1位の実力です。その打撃理論に信奉者が多いことも特徴でした。
中日監督として8年間オールAクラスに4度優勝と黄金時代を築く
2004年、落合博満は古巣・中日の一軍監督として指導者人生をスタートさせます。そして現役時代同様に、監督においてもオレ流を貫きました。就任早々、補強を凍結して現有戦力で戦うという異例の宣言をして臨みます。すると2位に7.5ゲーム差をつける宣伝どおりの優勝を飾りました。翌年は2位となりましたが、2006年は強力打線を構築して、自身2度目のリーグ優勝を実現します。3年で優勝2回と黄金時代が幕開けしていましたが、日本シリーズでの勝利は実現していませんでした。
2007年は巨人に次ぐ2位でシーズンを終えましたが、クライマックスシリーズで5連勝を飾り2年連続で日本シリーズへ進出します。思わぬチャンスを得ると、4勝1敗と初の日本一を達成。実に53年ぶりの快挙でした。中でも第5戦は特徴的で、先発・山井大介、クローザー・岩瀬仁紀による完全試合での優勝決定でした。そこから2年間、優勝を逃すもAクラスを常に死守し、2010年からは球団史上初のリーグ連覇も実現しました。実に8年間で4度のリーグ優勝に、日本一も達成とまさに黄金時代を築き上げました。
2011年限りで監督を退き、2013年末から中日のGMに就任します。しかし、自身がチームを率いていた時のレギュラー陣は軒並み高齢となっており、名球会入りを決めると現役引退するケースが相次ぎました。結果的に世代交代が進まず、2013年からは4年連続Bクラスと低迷を脱出できていません。そして2017年1月末でGMを退団しました。