岩隈久志について
名前 | 岩隈久志(イワクマヒサシ) |
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生年月日 | 1981年4月12日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都東大和市 |
プロフィール | 堀越高ではエースとして活躍し、3年生夏の甲子園西東京大会ベスト4に貢献。
2000年近鉄にドラフト5位で入団。2001年5月対日ハム戦でプロ初登板、初勝利を挙げる。2003年からは近鉄エースとして2年連続15勝をマークし、2004年は最多勝、最高勝率の2冠獲得。近鉄消滅に伴い、楽天に移籍すると開幕戦に完投勝利をあげる。怪我で2年間負本院成績に終わるも、2008年は投手3冠に、沢村賞、ベストナインなど賞を獲得。2009年、第2回WBCでも先発投手として連覇の立役者となる。 2012年からは、海外FA権を行使して、シアトル・マリナーズへ移籍。在籍5年間で3度の二桁勝利をマーク。2015年には、野茂英雄以来、日本人2人目のノーヒット・ノーランを達成。2017年、マリナーズ在籍6年目を迎えている。 NPB時代の通算成績は226試合、107勝69敗、防御率3.25、1,514回0/3、1,175奪三振(2016年まで)。最多勝2回、最優秀防御率1回、最高勝率2回、沢村賞1回、最優秀投手2回、ベストナイン2回。 MLB時代の通算成績は144試合、63勝37敗2S、防御率3.39、852回2/3、698奪三振(2016年まで)。堀越高卒、右投右打、190cm、95kg。 |
全く無名の高校生が、スカウトの目に留まり近鉄に入団
東京都東大和市に生まれた岩隈久志は、テレビで野球中継を見たことからプロ野球選手へ憧れを持つようになります。自身も小学1年から野球を始め、また西武球場近くに住んでいたため、西武ライオンズのファンになっていました。また後に結婚した際には、その義父が当時その西武で活躍していた広橋公寿だという縁もあります。中学に入り、投手になるとますます野球にのめりこみ、堀越高校に入っても同様でした。
芸能関係者が多い同校ですが、岩隈が入学した1997年春にはセンバツ甲子園に出場するほど野球の実力も持っていました。そして自身も2年後半から本格的に投手となって甲子園を目指しましたが、3年夏は都大会ベスト4で破れ、夢は叶いません。球速も130キロそこそこで、訪れるスカウトも無くドラフト指名はかからないと思われました。しかし長身で柔らかいフォームが印象に残っていた近鉄のスカウトが、ドラフト当日に推薦したことで大きく人生が変わります。こうして1999年ドラフト5位指名で、近鉄バファローズへの入団が決まりました。
3年目から2年連続15勝をマーク、近鉄のエースへと成長
入団当初は練習にすらついていけない岩隈久志でしたが、1年目オフのキャンプを乗り切ると飛躍的に向上しました。2年目当初から、将来の先発候補として一軍でも起用され、プロ初勝利を含む4勝をマークします。9月には完封勝利すら達成してチームの優勝に貢献しました。また、同年の日本シリーズでは、第2戦先発投手に指名されるという異例の抜擢もあったほどです。
翌年からは順調にプロの階段を登っていきます。2002年に先発ローテーション投手として8勝とシーズンを通して働くと、2003年からはチームのエースに君臨します。同年、リーグ6位と初めて防御率10傑に入り、自身初の二桁勝利となる15勝をマークしました。11完投はリーグトップであり、チームのAクラス入りにも貢献しました。さらに翌年は、開幕12連勝を飾るなど15勝2敗、防御率3.01(リーグ2位)という見事な成績で、初タイトルとなる最多勝、最高勝率をダブル受賞します。まさに獅子奮迅の活躍を見せましたが、チームはさらに順位を落とし5位で終わりました。
プロ野球再編で楽天へ移籍し、初代エースとなる
岩隈久志が最多勝をマークした2004年、プロ野球界は大きく揺らぎました。所属していた近鉄は球団経営を続けられない状態となり、プロ野球再編問題に発展します。10球団1リーグ制を主張する球団オーナーたちと、12球団2リーグ制を望む選手会が対立し、ストライキも勃発しました。最終的には、近鉄とオリックスの合併ならびに新規参入球団として楽天が誕生します。同年オフには選手分配ドラフトが行われ、岩隈はオリックス・バファローズへ分配されました。しかし、合併に際しての労使「申し合わせ」を引き合いに入団拒否し、結果的には金銭トレードで新球団・楽天へ移籍となりました。
楽天において、岩隈は初代エースになりました。2005年の開幕戦に先発すると、1失点完投し歴史的な初勝利をマークします。しかし有力選手の多くはオリックスへ所属した為、戦力差は著しく同年は9勝15敗と大きく負け越してしまいました。さらに同年途中に故障しながら投げていたことは大きな代償となって返ってきます。翌年から1勝、5勝と戦力になれず、2007年末には右肘手術を余儀なくされました。
完全復活し圧巻の投手3冠に、WBC優勝の立役者になる
2008年、故障が癒えて不安がなくなると、岩隈久志は完全復活します。同年、2年連続4度目の開幕投手を務めると、勝ち星を積み上げます。6月に早くも10勝目をマークし、終盤になっても勢いは衰えませんでした。同年楽天は65勝で5位に終わりましたが、岩隈は21勝と一人でチーム勝利数の約1/3を稼ぎました。防御率も1.87と驚異的で、最多勝、最優秀防御率、最高勝率の投手3冠に加え、沢村賞、最優秀投手、ベストナインなどあらゆる賞を獲得しました。
翌年3月に行われた第2回WBCでも、その実力を知らしめます。韓国との3試合は岩隈が全て先発して試合をつくり、全投手中最多の20回を投げてわずか3失点と日本の優勝に大きく貢献しました。MVPは松坂大輔に譲りましたが、優秀選手賞に輝きました。
メジャーでもマリナーズの柱として抜群の安定感を示す
2009、2010年と楽天で二桁勝利をマークし、そのオフにポスティングシステムを行使してメジャー挑戦を表明しました。入札の結果、オークランド・アスレチックスが交渉権を獲得しましたが、交渉は決裂し同年のメジャー移籍が消滅します。そして翌年も楽天で5年連続開幕投手を務めましたが、右肩を故障し6勝に終わりました。今度は海外FA権を行使してメジャー移籍を目指しました。
2012年1月、シアトル・マリナーズとの契約が決まり、メジャー挑戦が始まります。日本時代107勝をあげていた岩隈久志でしたが、なかなか先発のチャンスが訪れません。それでもリリーフで結果を残し、7月にようやく初先発でマウンドに上がりました。そして後半戦からは、先発の一人として活躍します。打たせてとる投球を続け、後半だけで8勝4敗とチームの戦力として活躍しました。
新たに3年契約を締結した岩隈は、すでに首脳陣の信頼を勝ち得ていました。完全に先発ローテーション投手としての地位を確立し、安定した投球を続けていきます。2013年は、14勝6敗と勝ち星を大きく積み上げ、防御率はリーグ3位の2.66でした。翌年も15勝9敗と2年連続二桁勝利あげ、チームの大エース・フェリックス・ヘルナンデスと2枚看板を務めました。2015年、怪我でフルシーズンは戦えず9勝と二桁勝利には届きませんでしたが、8月に大記録を達成します。実に野茂英雄以来となるメジャーでの日本人2人目のノーヒット・ノーランを達成しました。2016年も、メジャーキャリアハイとなる16勝をマークし、5年間で63勝と安定した成績をマークしています。2016年末現在で、通算200勝(日米含通算含む)に最も近い日本人投手です。