石井琢朗について
名前 | 石井琢朗(イシイタクロウ) |
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生年月日 | 1970年8月25日 |
国 | 日本 |
出身 | 栃木県佐野市 |
プロフィール | 足利工時代、2度の無安打無得点試合を達成。また2年の夏、エースとして甲子園に出場。
1989年ドラフト外で大洋(現・横浜)に入団。1992年内野手に転向し、石井琢朗に改名。1993年盗塁王となり、同年及び1994年、1997年三塁の守備で、1998年遊撃手でゴールデングラブ賞を受賞。同年〜2000年盗塁王を獲得。同年4年契約、総額12億5000万円で契約更改。2001年最多安打賞を獲得。2006年には史上34人目となる通算2,000本安打を達成。ドラフト外入団として史上2人目、投手1勝&通算2,000本安打も史上2人目の快挙。2008年、引退勧告されるも拒否して、広島東洋カープへ移籍。新天地で4年間を過ごし、通算安打数を歴代11位の2,432安打に伸ばして2012年現役引退。引退後は広島のコーチに就任。2001年元フジテレビアナウンサーの荒瀬詩織と再婚。 野手通算成績は2,413試合、8,638打数2,432安打、102本塁打、670打点、358盗塁、打率.282。最多安打2回、盗塁王4回、ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞4回。投手通算成績は28試合、1勝4敗、防御率5.69、49回、23奪三振。足利工卒、右投左打、174cm、74kg。 |
大学進学予定も一転して、ドラフト外でプロへの挑戦を決意
石井琢朗は、小学3年生から父が監督を務める「犬伏クラブ」で野球を始めました。この当時からすでにプロ野球選手になることを夢見ていました。そのため強豪校に入っての甲子園出場は必須と考え、足利工高校へ進学しました。早くも1年生秋からエースに就任すると、高校時代には2度のノーヒット・ノーランを達成するなど栃木球界に自身の名を知らしめます。また2年生夏には甲子園出場も果たしました。しかし、鹿児島商工戦で、延長10回を完投するものの、サヨナラ負けを喫し初戦で姿を消しました。
3年では甲子園出場を逃して投手としての自信を失い、その後の進路を東洋大学進学と心に決めていました。そのためドラフト指名はかかりませんでしたが、2年生当時の石井の投球に惚れこんでいた横浜大洋ホエールズのスカウトが声をかけます。プロを諦めかけていた時期に、まさかのチャンスが転がり込み、ドラフト外という形でしたが夢を求めて大学進学を断りました。
桑田2世と称されるも3年で1勝に終わり、野手転向を決断
石井琢朗はドラフト外入団ながら、大きく期待されて一軍キャンプを過ごし4月に早くも一軍初登板の機会も得ます。その後も安定した投球を続け、シーズン終盤には一軍で初先発にも抜擢されました。捕手はドラフト同期で1位指名の谷繁元信というルーキーバッテリーで、打線の援護もあって初勝利を手にしました。
抜群のセンスをもっていた石井は、桑田2世と呼ばれさらに投手として期待されます。しかし、自身は野手に憧れており、すでにキャンプ時点で転向希望をしていました。投手2年目に二軍で最優秀防御率となり、ジュニアオールスターに出場するものの、一軍での勝利は遠ざかります。3年目も未勝利に終わり、正式に野手転向を直訴しました。石井を野手としても評価していた球団はこれを許諾し、投手石井は3年、1勝4敗で幕を閉じました。そして心機一転で忠徳の名を琢朗に変えて再スタートと共に、伝説とも言われた猛練習を自らに課しました。
人の数倍は行ったとされる猛練習の甲斐あって、内野手登録された1992年後半には三塁手のポジションを奪います。そして1993年に初めて規定打席に到達し24盗塁で盗塁王獲得、さらには三塁手でゴールデングラブ賞獲得とすぐさま頭角を現しました。1994年は初のフル出場、そして1995年は初の打率3割と次々と課題をクリアし、三塁手としてのゴールデングラブ賞も初受賞から3年連続で獲得します。1996年には、遊撃手へコンバートされるも難なくこなし、横浜の上位打線としても石井は外せない存在となりました。
マシンガン打線不動のリードオフマンとして38年ぶり優勝
石井琢朗が入団した1989年以降、チームの成績は低迷し、1990年の3位以外はすべてBクラスに甘んじていました。しかし1997年、一気にリーグ2位へと浮上します。同年石井は1番打者として固定され、キャリアハイの打率.319でチームをリードし、遊撃手としてベストナインにも輝きました。
そして翌1998年、自信をつけたチームは一気にセ・リーグ制覇に向かいます。打ち出したら止まらないと言われたマシンガン打線、そして鉄壁なクローザー佐々木主浩を中心とした投手陣で優勝争いの主役に躍り出ました。石井は1番打者として2年連続3割、174安打で最多安打、39盗塁で盗塁王と同年就任した選手会長として恥じない成績を残します。こうして横浜ベイスターズは、38年ぶりのリーグ優勝を成し遂げました。続く日本シリーズでも、石井は初戦の第1打席で狙い済ましたセーフティバントと盗塁を成功させ、一気にチームに流れを引き寄せます。するとその後マシンガン打線が爆発して4勝2敗と西武を退けて日本一にまで登りつめました。
リーグを代表する遊撃手に成長し、通算2,000本安打も達成
1999年には、通算1,000本安打、1,000試合達成、200盗塁を達成するなど、石井琢朗はリーグを代表する遊撃手へと成長していきます。さらに、1998年から続く盗塁王獲得も3年連続に伸ばし、遊撃手部門のベストナインに至っては、1997年から5年連続で受賞しました。打撃成績も安定しており、2001年に2度目の最多安打を獲得するなど、長嶋茂雄以来史上2人目となる、6年連続150安打も達成しました。
こうしてコンスタントに安打を積み重ね、2006年5月には、史上34人目の通算2,000本安打も達成します。ドラフト外入団では、秋山幸二(元西武、ダイエー)以来2人目の快挙達成、そして投手として1勝をあげながらの達成も川上哲治以来の史上2人目と、歴史に名を刻みました。
引退勧告を拒否して広島へ移籍し、歴代11位の安打数を記録
横浜ベイスターズは、1998年の日本一以降、再びBクラスに落ちると最下位も経験するという暗黒時代に陥ります。すると世代交代の波が押し寄せ、石井琢朗の出番も徐々に少なくなっていきました。そして2008年オフには、球団から引退勧告を受けてしまいます。横浜球団史上最多2,306安打を記録した功労者をあっさりと切り離すという行為は、大いにファンの怒りを買いました。しかし、石井はそれを拒否して現役続行を希望し自由契約を申し出ました。
2009年、石井は38歳にして新天地・広島東洋カープのユニフォームを着ました。ベテランのため、かつてのようにフル出場するレギュラーの扱いではありません。しかし練習に対する姿勢は、年齢を重ねても変わらず、若手の多い広島に大きな影響を与えました。2010年には少ない打席数にもかかわらず、打率3割をマークしヒットメーカーとしての存在感も見せました。そして2012年からは、一軍野手コーチも兼任し、42歳となった同年10月の試合出場を最後に現役引退しました。結局、広島4年間で125安打を積み重ね通算2,432安打とし、歴代順位を11位にあげました。石井の引退でドラフト外入団選手は球界に不在となりました。
打撃コーチとして尽力し、広島25年ぶりの優勝に貢献
石井琢朗は引退と同時に、広島一軍内野守備・走塁コーチに就任します。2015年秋から、打撃コーチに転身すると、12球団一の練習量といわれる球団に課しました。すると得点力不足だったチームが一変し、2016年には逆転勝利数が実に45勝というビッグレッドマシンガンが形成されます。同年は、25年ぶりのリーグ優勝を実現し、指導者という立場で自身2度目の優勝を味わいました。