文=いとうやまね

【後編】音響デザイナー・矢野桂一が語る、華麗なるアイスショーの舞台裏

音響から音源編集まで

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 あくまでも本業は会場での「音響(PA)」だという矢野桂一氏。フィギュアスケートに携わって30年以上、世界大会ともなれば一度に100組300曲以上ものプログラム曲を管理することになる。事前の調整や直前リハーサル、本番でのきめ細かな仕事に、関係者、特に選手やコーチたちに全幅の信頼を置かれている。

 プログラム音源に直接関わったのは、アルベールビル五輪の銀メダリスト、伊藤みどりさんが最初だったという。当時エンジニアとして所属していたYAMAHAで、オリジナル音源のレコーディングとマスタリングを担当した。音楽教室の生徒さんが作曲したエレクトーン曲をフルオーケストラで録音し直すという大がかりなものだった。

 その後もスケートの仕事は続いたが、会場で流される音源には頭を悩ませていた。音質、音量、曲のつなぎ、すべてにおいて、あまりに作りがお粗末だったのである。これは何とかならないものか、と思っていた矢先に、荒川静香選手(当時)の話が来た。フリーの曲の出だしの音量を上げたいというものだった。

 トリノ五輪の『トゥーランドット』も、矢野さんの手によるものだ。荒川選手の金メダルを何より喜んだことは言うまでもない。時間がない中での調整が報われた瞬間だった。

「最近は、ゼロから全部作るパターンが多くなりました。どこでジャンプするとか、スピンをするとか、そういうのは後の話で、まず通しの音楽が出来てからじゃないと振り付けも決まらないらしいです」

 いわゆる“たたき台”から作るのだが、その後は振付師やスケーター本人とのやりとりで、最終的なプログラム曲に仕上げていく。そのすべてが仕事なのだ。フィギュアスケート競技は、「ショートプログラム(SP)」と「フリースケーティング(FS)」の総合得点で勝敗が決まる。ショートは2分50秒、フリーは男子4分30秒、女子4分とルールで定められている。その時間内に原曲を編集しまとめるのだ。

 矢野さんに音源編集を依頼する選手やコーチは後を絶たない。時には選手が自宅の作業場に訪ねてくることもある。小塚崇彦選手(当時)が演じた『レスペート・イ・オルグージョ〜誇りと敬意〜(ファルーカ)』も、矢野さんの書斎で最終的な音源が作られている。

「本人が一番納得するものをその場で作れるので、来ていただくのはかえってやりやすいですよ」

7曲を組み合わせた、羽生結弦の『SEIMEI』

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 矢野さんが、映画『陰陽師』のサウンドトラックを用いた羽生選手のプログラム『SEIMEI』を編集したことは、スケートファンの間ではよく知られている。羽生選手には提案のデモ音源を以前から送っていたという。

 本人からは、「陰陽師のメインテーマと龍笛の曲は絶対に使いたい。後はお任せ」というシンプルなリクエストが届いていた。そこで、2枚のアルバムからスケートに合いそうな曲を選んで、ひとつの形にした。羽生選手のスケーティングを“想像”しながら、特徴的な7曲を組み合わせたのである。

「彼の場合、音楽に凄くこだわりがあるんです。『取りあえずこれを基本に持って行きます』と言って、ここから先は本拠地カナダで振付師との本格的なプログラム作りに入っていきます」

 その後もメールでのやり取りは続いた。「ここはあと5秒欲しい」とか、「最後は気がつかないくらいにテンポを上げて、時間内に収めたい」とか。練習が進むにつれ、「ラストに太鼓が欲しい」「ここに“間”を入れたい」など、最終的には33バージョンの『SEIMEI』が作られた。矢野さんは当時を回想して笑う。

「どんどん注文が増えるんです。でも、僕もプロとして出来ないとは言えないんですよ」

 プログラムの中盤に、ファンの間で話題になった箇所があった。別々のアルバムに収められた2曲を重ね合わせて1曲に編集した部分である。振付師シェイ=リーン・ボーンによる提案だったという。同じメロディを奏でるピアノと龍笛は、ピッチもテンポもまったく違っていて、実際には簡単に重ねられるものではなかった。矢野さんは大変苦労して、あの美しいパートを作り上げている。

原曲とは違う「ひとつの作品」として

©矢野桂一

 プログラム曲には原曲があり、当然作曲家がいる。それがショパンであったりプッチーニである分には、特に気にする必要はない。問題は、現在も活躍中の作曲家の場合である。ちなみに、『陰陽師』は、梅林茂さんの作品だ。以前から気になっている部分に少し踏み込んでみた。

 オリジナルの作曲家と話すことはあるのか?

「特別には話しません。音楽的におかしければ文句を言われるかもしれませんが、音楽として成立していれば、あまり問題にはなりません。『ひとつのフィギュアスケートの作品』として理解してもらえたらありがたいです」

 今まで、どちらかと言えば好意的な声の方が多かったという。例えば、高橋大輔選手(当時)がアコーディオニストCOBAの曲を使用した時も、かなり多くの部分を編集していた。

「気を悪くされるかなと思ったのですが、原曲のダウンロード数も増えて、逆に感謝されてしまいました。その後、高橋君とCOBAさんの対談イベントやショーでの共演も企画され、両者共にとてもいい関係になりました」

久石譲氏のご厚意『Hope & Legacy』

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 羽生選手が久石譲さんの曲を持ってきた時には、周りが慌てた。久石さんといえば日本を代表する音楽家で、スタジオジブリが制作するアニメーション作品の音楽でも有名だ。

「作るのはいいけど、羽生くん側の関係者に『使用許可だけは取ってくださいね』と言ったんです。編集はそれと平行してスタートさせました」

 矢野さんがそう言ったのには理由があった。以前、小塚選手本人が編集したジブリの曲の使用許可が下りず、敢えてプログラム用に再録音した経緯があったからだ。なので、羽生選手のリクエストには細心の注意が払われた。ところが、羽生選手の関係者から伝えてもらった時点では了承を得られなかった。

 いちばんの問題は、別の2曲を繋げて使用することにあった。作曲した経緯や曲のコンセプトがまるで違うものを合わせるということは、作曲者の意と反することである。どちらか1曲を編集して使用するのであれば目をつぶることもなくはないが、繋げることに関しては、楽曲を大切にする観点からも簡単に許可できるものではないとのことだった。

 これは音楽に携わるものとして納得のいく説明だった。それでも、何とか了解してもらう方向を探した。今度はテレビ関係者の仲立ちのもと、矢野さんとスケート関係者の数人で、久石さんの事務所にあらためて頼みに行った。

「本人はいらっしゃらなかったのですが、プログラム用に私が編集した現物をその場で事務所の方に聞いていただいたんです。それで、フィギュアスケートは営利目的ではなく、純粋にスポーツのひとつであること。その競技のプログラムとして久石さんの曲を使わせていただきたいこと。競技時間や演技にあわせて編集を加える許可をいただきたいこと。それらをあらためてお願いしたんです。羽生選手の中にはすでにイメージがあるようで、何とか許可をいただきたく久石さんのほうにお話ししてくだされば、と」

 その後、久石さんからは許可をいただけることになった。ただし、これは今回限りの特例であり、久石さんのご厚意によるものだ。プログラム曲『Hope & Legacy』は、『View of Silence』という美しいピアノ曲が、エキゾチックな『Asian Dream Song』を挟む形になっている。世界にひとつしかない珠玉のプログラム曲は、羽生結弦の代表的な作品になった。

 まもなく、『Hope & Legacy』に携わった関係者は、東京でのコンサートに招待された。その時、矢野さんははじめて久石さん本人に直接挨拶をしたのだった。

(後編では、アイスショーでのアクシデントとサプライズ、矢野さんのフィギュアスケート音楽に対する哲学を話していただきます)

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[プロフィール]
矢野桂一
音響デザイナー/音楽編集プログラマー。1957年福岡県出身。1975年より音響技術師として活動。1978年よりYAMAHA東京支部音響担当。現在はフリーランスでフィギュアスケートの音響・音楽制作を行っている。


いとうやまね

インターブランド、他でクリエイティブ・ディレクターとしてCI、VI開発に携わる。後に、コピーライターに転向。著書は『氷上秘話 フィギュアスケート楽曲・プログラムの知られざる世界』『フットボールde国歌大合唱!』(東邦出版)『プロフットボーラーの家族の肖像』(カンゼン)他、がある。サッカー専門TV、実況中継のリサーチャーとしても活動。