川上憲伸について

名前川上憲伸(カワカミケンシン)
生年月日1975年6月22日
日本
出身徳島県徳島市
プロフィール徳島商3年生の時に夏の甲子園に出場。大学入学後も1年生からマウンドに立ち、アマチュア全日本メンバーとしてフロリダ合宿にも参加。3度のリーグ優勝に貢献し、1995年、1996年と神宮大会も連覇。1997年主将となる。

同年中日を逆指名、1998年ドラフト1位で中日に入団。同年14勝6敗の成績をあげ、新人王争いでは、巨人の高橋を大差で抑えて受賞を決める。12月の契約更改ではルーキー史上最高アップ額の4,300万円を獲得。以後3年間不調に陥るも、新球カットボールを習得すると復活します。2004年、2006年はともに最多勝17勝を挙げてリーグ優勝に貢献。特に2004年は、沢村賞含めて9タイトルを独占。4年連続二桁勝利をマークするなど中日のエースとして活躍。

2009年からはアトランタ・ブレーブスと契約してメジャーリーグ挑戦。初先発初勝利をあげる絶好のスタートを切るも、援護率が低く1年目は7勝12敗と大きく負け越す。2年目以降、肩の負傷、不調に苦しみマイナー降格を経験し、3年目はメジャー昇格することなく契約終了。2012年からは古巣中日に復帰。2014年は球団最多となる7度目の開幕投手を務めるも、復活することなく2015年戦力外通告。そのご現役復帰を目指してリハビリするも、2017年3月現役引退を表明。

NPB時代の通算成績は275試合、117勝76敗1S、1ホールド、防御率3.24、1,731回0/3、1,381奪三振。最多勝2回、最多奪三振1回、新人王、MVP1回、沢村賞1回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞3回、徳島県表彰。

MLB時代の通算成績は50試合、8勝22敗1S、防御率4.32、243回2/3、164奪三振。明治大学卒、右投右打、178cm、80kg。

明治大学時代、投手としての才能が開花して中日を逆指名入団

川上憲伸は、徳島県に生まれ地元の名門・徳島商業高校へ進学しました。実は2年までは打者を務めており、投手となったのも他選手の怪我が原因です。それまで甲子園出場は叶いませんでしたが、自身が投手で4番を務めた3年夏、最後のチャンスをものにします。県大会で連日、僅差の試合を勝ちきり、甲子園でも球史に残る大逆転劇を巻き起こしました。2回戦の久慈商業戦、川上の不調をつかれて7回終わって0-7という圧倒的大差でリードされていました。しかし8回裏にようやく1点を返すとそこから甲子園の観衆を味方につけて一気に同点に追いつきます。そして9回裏にはサヨナラヒットが生まれ奇跡の逆転勝利を掴みました。そこからも勢いは止まらず、チームのベスト8に貢献しました。

その秋、打者として評価され下位指名で獲得という話もありましたが、明治大学へ進学します。すると投手としての才能がさらに開花し、3年時秋にはエースとして、4勝無敗、防御率0.61で全勝優勝を実現しました。4年には主将に就任し、同期でライバルだった高橋由伸(当時・慶應義塾大学)とは数々の名勝負を繰り広げました。大学4年間で28勝15敗、防御率2.14、311奪三振という好成績を残し、今度は注目投手としてドラフト会議を迎えます。そして、大学の先輩である星野仙一が監督を務める中日ドラゴンズを逆指名して、プロへと進みました。

1年目に14勝をマークし、高橋由伸との壮絶な新人争いを制す

即戦力ルーキーの川上憲伸は、中日先発ローテーション投手として順調にプロ人生をスタートさせます。初先発初勝利をあげると、7月には巨人戦で初完投も記録し、オールスターゲームにもファン投票1位で初選出されました。同年チームは優勝を逃しましたが、川上はチームトップタイの14勝、リーグ2位の防御率2.57にリーグトップの3完封など素晴らしい成績をマークしました。

通常ならほぼ満場一致での新人王選出ですが、同年は多くの新人が大活躍し稀に見る激戦となりました。大学時代からのライバル高橋由伸(巨人)は、打率.300、19本塁打にゴールデングラブ賞、小林幹英(広島)は54試合に登板して9勝18セーブ、さらに坪井智哉(阪神)は新人最高打率の.327という皆、新人王を取ってもおかしくないレベルです。最終的には高橋との一騎打ちとなり、直接対決で22打数1安打に抑えていたことも考慮されたのか、川上が新人王に輝きました(高橋はセントラル・リーグ特別表彰)。

2年目のジンクスに苦しみ、打破のためにカットボールを習得

1998年、川上憲伸は2年目ながら開幕投手に抜擢されて勝利を収めると、そこからチームは11連勝し開幕ダッシュに成功します。完全に勢いに乗った中日は、圧倒的な投手陣を武器に一度も首位を譲ることなくリーグ優勝を飾りました。しかし、川上は、8勝9敗、防御率4.44と大きく数字を落とし、2年目のジンクスに陥った形となりました。実は不調の原因は肩の故障にあり、3年目も2勝、4年目も6勝と代償は高くつきます。ルーキーイヤーは投球のほとんどをストレートが占めていましたが、それでは通用しないと悟り新球習得を目指しました。

そして2001年オフ、メジャーリーグのワールドシリーズでひとりの投手に釘付けとなります。それはヤンキースでクローザーを務めていたマリアーノ・リベラであり、投球のほとんどは得意球だったカットボールでした。そこから見よう見まねで、カットボールの練習をはじめ、翌年春季キャンプには試合で使える自信を手に入れていました。

2度の最多勝を獲得するなど、中日絶対的エースに成長

新たな武器を得た川上憲伸は、2002年見事に復活を果たします。シーズンを通して安定した投球を披露し、10月には史上70人目のノーヒット・ノーランを巨人相手に達成しました。同年は、チームトップの12勝をマークし、リーグ2位の防御率2.35を残しました。

そしてチーム監督に落合博満が就任した2004年以降、大黒柱として黄金時代を牽引します。2004年は、キャリアハイの17勝をあげてリーグ優勝に貢献すると、初の沢村賞、MVPなど実に9つのタイトルを総なめにしました。2006年も17勝で2度目の最多勝に、最高勝率、最多奪三振と投手3冠を獲得して再び優勝に貢献します。2007年には、通算100勝をクリアして4年連続二桁勝利を達成、翌年も北京五輪参戦の影響もあって9勝と二桁には届きませんでしたが、まさに一時代を築きました。

メジャーリーグ挑戦も、右肩怪我にも苦しみ3年間で8勝に終わる

川上憲伸は、さらに一段上のレベルで野球を楽しみたいと思い、2008年オフに海外FA権を行使してメジャーリーグ挑戦を表明しました。そして、アトランタ・ブレーブスと3年契約を締結し、海を渡りました。先発ローテーションの一角として開幕を迎え、初先発で初勝利と最高のデビューを飾ります。しかし、ボールやマウンドの違いなどに苦しみ、持病だった肩を痛めてしまいます。途中中継ぎ降格も経験しながら1年目を7勝12敗で終えました。敗戦数が大きく勝利数を上回ってはいますが、防御率は3.86と比較的安定しており低い援護率も関係していました。

しかし2年目は故障も癒えず、球団史上ワーストの開幕9連敗を喫するなど1勝10敗という散々な成績に終わります。秋にはマイナー降格となり、3年目はまずメジャー枠を目指してのスタートを強いられました。しかし右肩の状況は一向にして改善せず、結局マイナーのままで3年目が終了し、契約の延長とはなりませんでした。

中日復帰して7度目の開幕投手を務めるも、年齢と怪我には勝てず

36歳だった川上憲伸は、2012年シーズンから4年ぶりに古巣中日ドラゴンズに復帰します。復帰初登板で勝利を飾りましたが故障が続き、かつての輝きを放つことはできません。同年は7試合で3勝、2013年は5試合で1勝とチームの戦力になれず、同年オフに戦力外通告を受けました。

しかし、チームの監督に谷繁元信が選手兼任で就任すると、一転して川上は現役続行のオファーを受けます。そして驚くことに、かつてバッテリーを組んでいた監督は、復活を期し2014年開幕戦のマウンドに川上を指名しました。球団史上最多の7度目という機会で、ベテランらしく6回2失点と試合を作ります。その後もローテーションを守っていましたが、5月に登録抹消となると、1勝2敗でシーズンを終えます。翌年は、ついに一軍二軍でも登板機会がなく、中日からは2度目の戦力外通告を受けました。その後も現役にこだわり、故障回復に努めましたが、ついに2017年3月、現役引退を表明しグローブを置きました。


VICTORYアスリート名鑑

VICTORYアスリート名鑑編集部のアカウントです。