中西哲生について
名前 | 中西哲生(ナカニシテツオ) |
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生年月日 | 1969年9月8日 |
国 | 日本 |
出身 | 愛知県 |
プロフィール | 小学3年生からサッカーを始め、高校時代には、愛知FCでプレー。同志社大学卒業後、名古屋グランパスに入団。1997年当時JFL(現・J1)の川崎フロンターレに移籍。1999年キャプテンとして、J2優勝とJ1昇格に貢献。守備的MFとして活躍。
2000年引退し、テレビの解説者などとして活躍。著書に「魂の叫び J2聖戦記」(幻冬舎文庫)、「ベンゲルノート」(幻冬舎)、「日本代表がW杯で優勝する日」(朝日新書)。同志社大学卒、180cm、76kg。 |
名古屋グランパスエイトでJリーグ開幕も、2シーズン低迷
中西哲生は、父が大阪大学名誉教授というアカデミックなDNAを引き継いで愛知県に生まれました。小学3年生からサッカーを始めると、名古屋大学附属高校時代に全国有数のユースクラブチームでもある愛知FCでプレーを続けます。そして同志社大学を卒業後の1992年、名古屋グランパスエイトに入団しました。
チームは、Jリーグ開幕前年に大目玉として、ゲーリー・リネカーと契約しました。かつてのワールドカップ得点王が加入し、まずはプレマッチにあたるJリーグカップに挑みます。高卒のスーパールーキー小倉隆史とともにチームの核となり3位という好成績を収め、1993年、ついにJリーグ開幕を迎えました。しかし、ポジションがかぶる浅野哲也が多く起用され、自身のリーグ戦出場はわずか4試合に終わります。さらに期待されたチームも歯車がかみ合わず、12勝24敗と大きく負け越し総合9位と惨敗しました。
続く1994年、中西は前年と打って変わって37試合に出場します。しかしチームは前半のサントリーシリーズで8位と低迷し、急遽ドラガン・ストイコビッチを獲得しました。しかし、後半のニコスシリーズでは12チーム中最下位に終わり、総合11位とファンの期待を大きく裏切る形となりました。
ベンゲル監督就任でチームは一気に上位進出し、天皇杯初優勝
Jリーグのお荷物とも言われ、大物リネカーも退団すると、チームの監督にはアーセン・ベンゲルが就任して建て直しを図りました。そして中西哲生は、語学力という武器を持っていたため、監督とチームの橋渡しとなり、ストイコビッチなどの外国人とのコミュニケーションも支えました。そしてプレーでも、33試合に出場して6得点をマークするなど活躍します。ベンゲル監督は、組織的な戦略をチームに植え付け、2シーズン低迷していたチームを一気に上位に押し上げました。サントリーシリーズ4位、ニコスシリーズは2位とまさに躍進を果たし、名古屋グランパスエイトは総合順位も3位となりました。ストイコビッチは年間MVPを奪い、ベンゲル監督はJリーグ最優秀監督賞を獲得しました。
そして迎えた第75回天皇杯では初優勝し、チームはクラブ史上初のビッグタイトルを獲得します。中西も天皇杯全5試合に出場して、初優勝に大きく貢献しました。
川崎フロンターレ時代、キャプテンとしてJ1昇格に貢献
1996年、チームは好調を維持し年間2位をキープし、その後は年間王者にまで上り詰めます。しかし中西哲生自身は控えに回ることが多くなり、年間出場試合数も16試合に留まりました。すると出場機会を求め、1997年からは川崎フロンターレへの移籍を決断します。当事JFL所属の川崎にとって、Jリーグ入りを果たすためには2位以上の結果が必要でした。そして中西を始めとして元Jリーガーを多数チームに迎え入れました。しかし1997年シーズンは、ライバルとの直接対決に敗れて3位に終わり、わずか勝ち点1差でJリーグ昇格を逃します。そして1998年シーズンは準優勝を達成して、J1参入決定戦に挑みました。しかし中西自身のミスがきっかけとなってVゴールを奪われ、翌年から新設されたJ2入りとなりました。
1999年シーズン、中西は途中から主将を務めてディフェンスラインを安定させます。そしてJ2における2位以内を確定させると、残りの試合でも勝利し、見事J2優勝を飾りました。中西は、この間の激闘を自らホームページに記録し続け、後に「魂の叫び J2聖戦記」として出版されることとなります。J1昇格を果たしたチームは、さらなるチーム強化に努め、逆に中西はレギュラーの地位を失います。怪我もあったことから、年間で5試合の出場に終わり、チームもわずか1年でJ2へ逆戻りとなりました。この時点でまだ31歳でしたが、中西は早くも現役引退を決意しピッチを去りました。
スポーツジャーナリストとしての幅広い活動
現役引退後は、スポーツジャーナリストという立場で活動を開始しました。多くのテレビ番組にも出演するようになり、幅広くサッカーを伝えています。その他執筆活動や、川崎フロンターレ特命大使としても活動をしており、日本サッカー協会・名誉役員や桐蔭横浜大学スポーツ健康政策学部客員教授などの役職も務めています。
日本代表選手すら教えを乞うという中西メソッドの可能性
中西哲生は、もちろん後進の指導という活動も積極的に行っています。しかしその方法は、独特です。引退後サッカーはもちろん、スポーツの枠を超える分野の知識を身につけ、日本人らしいサッカーをするための技術を自身で再定義しました。それらは、中西メソッドと呼ばれ、数多くの選手たちにパーソナル指導として伝えています。長友佑都や大儀見優季といった日本代表選手すらその方法を習い、しかも中西は一切報酬を受け取らないという方針を貫いています。
また島根県出雲市の観光大使に就任したことをきっかけに、大社高校の指導を開始すると、3年間指導を受けた選手たちは全国大会への切符も手にします。さらに全国高校サッカー選手権大会でも優勝候補の青森山田高校相手に激戦を繰り広げました。まさに、中西メソッドが効果的であることが証明されたのです。