立浪和義について

名前立浪和義(タツナミカズヨシ)
生年月日1969年8月19日
日本
出身大阪府
プロフィール1987年春、夏の甲子園を連覇したPL学園の主将。夏の甲子園では2本塁打を放った。ベース1周14秒台の俊足。

1988年ドラフト1位で中日に入団。同年高卒ルーキーとしては22年振りに開幕戦に先発出場を果たした。同年新人王、ゴールデングラブ賞を獲得。

1996年6月対巨人戦で通算1,000本安打を達成。同年ベストナイン。1999年チームの選手会長に就任し、11年ぶりのリーグ優勝に貢献。2003年、史上30人目の通算2,000本安打を達成。2005年には、プロ野球新記録となる450本目の二塁打を記録。2009年限りで現役引退したが、歴代8位の2,480安打、プロ野球記録の487本の二塁打を放った。

通算成績は2,586試合、8,716打数2,480安打、171本塁打、1,037打点、135盗塁、打率.285。新人王、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回。PL学園高卒、右投左打、173cm、70kg。

PL学園時代、主将として甲子園春夏連覇を達成

立浪和義は大阪に生まれ、幼少期から野球をはじめます。王貞治に憧れを持ち、兄の背中を追って小学4年からは茨木ナニワボーイズに入ります。6年生まで投手を務めましたが、右肘を痛め内野手へ専念します。この時、代わってエースとなったのが、後のチームメイトで幼馴染の橋本清でした。中学時代もナニワボーイズで野球を続け、痛めた右肘に頼らないスナップスローを身につけます。そして高校は憧れでもあったPL学園に進学しました。

PL学園には、全国から野球の精鋭が集結しました。そして1年生は、3年生に付き人として様々な世話をするという習慣があり厳しい上下関係を学びます。立浪も、3年生だった桑田真澄の付き人となり、寮では同部屋で過ごしました。

2年生春にセンバツに出場して甲子園デビューを飾りますがまさかの初戦敗退となり、同夏は予選で姿を消します。そして2年秋には主将を任されますが、新チームは後にプロ入りする選手が5人も揃う強豪となっていました。投手には、幼馴染だった橋本に加えて野村弘樹がおり、ともにクリーンナップを組んだ片岡篤史、そして1学年下には宮本慎也というラインナップでした。

そして3年春、センバツに出場すると、2試合の延長戦を勝ち抜き見事な全国優勝を飾りました。この時点で、プロからの注目も集まるようになり、それをさらに高めたのが夏の甲子園でした。立浪は不動の3番・遊撃手として出場し、2本塁打、8打点と活躍します。4番片岡も、打率.565と大爆発し、あのKKコンビですら実現できなかった春夏連覇を達成しました。

22年ぶりに高卒ルーキーとして開幕スタメン出場し、同年は新人王

甲子園で評価を高めた立浪和義は、南海ホークスが早々に1位指名を宣言します。しかし、1987年ドラフト会議が始まると、中日ドラゴンズも1位指名で競合し、当時の星野仙一監督が当選クジを引き当てました。期待の背番号3が与えられると、その素質も大きく評価されていきなり一軍キャンプに抜擢されます。特に遊撃手における守備は、当時のコーチとしても手を入れる必要がありませんでした。しかし正遊撃手には、前年ベストナインを獲得した長距離打者の宇野勝がいました。すると驚くことに、中日首脳陣は宇野を二塁手にコンバートさせてでも、立浪を遊撃手に据えるという大英断を下しました。

キャンプも順調に過ごし、立浪は22年ぶりに高卒ルーキーとして開幕スタメンに抜擢されます。さらに第3打席で、後に自身の代名詞ともなる2ベースで初安打を記録するなどフルイニング出場も果たしました。さらにオールスターでも遊撃手部門でファン投票1位となり初出場を果たします。さすがに長いシーズンでは、体力不足が露呈し、後半大きく打率を落としましたが、110試合に出場しました。同年、中日は後半戦を勝率7割越えで走り抜け、見事な逆転優勝を飾ります。立浪は打率.223と低調に終わりましたが、高い守備力、22盗塁、21犠打なども評価され新人王ならびに高卒新人としては初となるゴールデングラブ賞を受賞しました。

中日不動のレギュラーとして、16年連続規定打席到達

2年目は怪我の影響もあり、大きく出場試合数を減らしましたが、3年目からは中日不動のレギュラーとして君臨します。1990年からは、大きく戦線離脱することもなく、16年連続で規定打席意到達という偉業も達成しました。同年は初の打率3割もクリアし、パンチ力がついたことで長打も増え始めます。特に2ベース本数は毎年コンスタントに稼ぐようになりました。そして国民的行事と称された1994年、伝説の巨人との10.8決戦にも3番打者として出場しました。最終戦の直接対決で勝ったほうが優勝という緊張感の中、まさに死闘が繰り広げられます。3点リードを奪われた8回、大先輩・桑田真澄から内野安打を放ち、一塁ベースにヘッドスライディングをした際に、左肩を脱臼しそのまま負傷退場しました。それでも、主力選手の命がけのプレーに、当時のナゴヤ球場は興奮の坩堝と化しました。

立浪和義の守備力は相変わらず高く、1992年に二塁手へ転向すると、1993年から1994年にかけて連続無失策のリーグ記録を更新するほど堅実でした。そして二塁手に慣れた1995年からは、3年連続でゴールデングラブ賞を受賞しました。

3代目ミスタードラゴンズとして、二塁打プロ野球記録を更新

立浪和義は、高卒でプロに入団し、即レギュラーとなったため10年目の1998年シーズンを終えた時点でもまだ28歳でした。そして、1999年立浪は選手会長に就任します。同年は投手陣が安定し、実に11年ぶりのリーグ優勝を成し遂げます。さらに2000年は、自身4年ぶりの打率3割をクリアして、通算1,500安打も達成しました。この当時から、三塁手としての出場が増えて、2003年には三塁手としてゴールデングラブ賞を受賞します。遊撃手、二塁手に続いて異なる3つのポジションでの受賞は史上最多の記録でした。

安定した打撃で、2003年、史上30人目の通算2,000本安打も達成します。翌年、チームの監督に落合博満が就任すると、3番三塁手として固定されます。その期待にこたえ、5月、6月は連続月間MVP受賞とチームを牽引し、5年ぶりのリーグ優勝に導きました。2005年には、プロ野球新記録となる通算450本目の2ベースをマークし、6月には球団新記録も更新しました。まさに、入団以来の安定した活躍は、西沢道夫、高木守道に続く3代目ミスタードラゴンズとして称されるようになっていました。

晩年は代打の切り札として活躍し、歴代8位の安打数で現役引退

2004年から1位、2位、1位と中日は黄金時代を迎えていました。しかし流石の立浪和義も年齢から来る衰えには勝てず、出場機会が減っていきます。それでも2007年からは、ここ一番の代打の切り札としチームに貢献しました。同年は30安打で31打点と存在感を示し、シーズン2位ながらも、53年ぶり2度目の日本一に貢献しました。そこから、2年間は打撃コーチを兼務して、変わらず貴重な代打として戦力となりましたが、40歳のシーズンでついに現役引退となりました。ミスター2ベースと称された立浪らしく、最後の安打は初安打と同じ2ベースとなり、自らの記録を487本に更新してバットを置きます。身長173センチと小柄ながら、生涯で歴代8位となる2,480本(2016年末現在)の安打を積み上げました。

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