鈴木啓太について

名前鈴木啓太(スズキケイタ)
生年月日1981年7月8日
日本
出身静岡県
プロフィール幼少期から、清水第八サッカークラブ、清水FCなどで全国大会も経験。東海大一中、東海大翔洋高を経て、2000年浦和レッズに入団、2001年8月Jリーグデビュー。ユース代表候補に選出された実績を持つ。豊富な運動量で攻守にわたりバランスの取れた動きを見せる。U-23日本代表にも選出されて、アテネ五輪出場にはキャプテンとして出場。2001年からはレッズのレギュラーにも定着し、2006年から日本代表にも選出される。

2006-2007年は2年連続でJリーグイレブンに選出され、2007年は日本年間最優秀選手賞も受賞。2009年からは3年間チームのキャプテンを務める。2014年、試合途中に不整脈を発症し、チームも大逆転で優勝を阻まれると、2015年は4試合の出場に留まり、同年現役引退を表明。2015年10月からは、AuB(オーブ)株式会社の代表取締役に就任して、実業家としての第2の人生をスタートさせている。

国際Aマッチ 27試合出場 0得点。東海大翔洋高卒、177cm、67kg。

サッカーのお膝元で成長し、高卒で浦和レッズに入団

鈴木啓太は、サッカーが盛んな静岡県清水市で生を受けたこともあって幼少期からボールを蹴り始めます。幼稚園時代から、清水第八サッカークラブに入り、小学生になると名門清水FCに加入しました。全国でも有数のクラブでもあり、全日本少年サッカー大会準優勝も経験します。東海大学第一中学に進学しても、全国制覇を成し遂げた一員に名を連ねるなどサッカーエリートとして少年時代を過ごしました。

多くのプロサッカー選手を輩出している東海大学翔洋高校に進学し、卒業後は浦和レッドダイヤモンズに入団しました。入団時、レッズはJリーグで低迷が続いており、2000年はJ2でのプレーを余儀なくされていました。そして1年でのJ1復帰を目指し、大分トリニータとの激しい2位争いを制し見事に目標を実現させます。ルーキー鈴木はリーグ戦での出場機会は与えられませんでしたが、天皇杯でプロデビューを果たし、さらにはゴールも決めるというすばらしい船出を飾りました。

アテネ五輪予選でキャプテンを務めるも、最終選考漏れを経験

2001年、鈴木啓太は一気にレギュラーを奪いレッズの中盤に欠かせない存在となります。それでもレッズはなかなかリーグ戦では上位進出できず、ナビスコ杯や天皇杯でも結果を残せませんでした。そんな中、鈴木はU-23日本代表に選出されて、アテネ五輪を目指すようになります。実は当初このチームは、タレントが不足し、谷間の世代と揶揄されていました。

しかし、最終予選ではチームのキャプテンに抜擢され、見事にオリンピック出場権を獲得しました。そして五輪本番に向かうはずが、本選を前にして鈴木は最終選考から漏れるという屈辱を味わいました。

レッズレギュラーとしてタイトルを取り、日本代表でも一時代を築く

浦和レッズにおける鈴木啓太は、安定して出場を続けチームも徐々に上昇気流に乗っていきます。2004年は年間優勝こそ逃しましたが、悲願のステージ優勝を飾りました。2005年にはJリーグ加盟後初めて天皇杯を制し、2006年は初のJリーグ優勝に天皇杯連覇を経験します。2007年には、Jリーグのクラブとして初めてAFCチャンピオンズリーグを制し、その後出場したクラブワールドカップでも、3位という好成績も収めました。この間、鈴木は不動のレギュラーとしてチームを牽引し、2006年から2年連続でJリーグベストイレブンにも選出されます。さらに2007年には、全国のサッカー担当記者の投票により選出される日本年間最優秀選手賞にも輝くというまさに絶頂期でした。

同時期の鈴木は、日本代表としても不動の地位を築き上げていました。2006年にイビチャ・オシムが代表監督に就任すると初めてA代表に選出されます。そして、オシム監督は、誰よりもピッチを走り回る鈴木を、「水を運ぶ選手」として全試合に招集し、唯一全試合で先発起用しました。オシムが病で倒れ監督を辞すると、鈴木も招集されなくなりましたが、2006年からの3年間で国際Aマッチ27試合に出場し大きな経験を積みました。

3年連続キャプテンを務めるも、浦和レッズは再び低迷期に入る

リーグ戦は試合数が決まっていますが、トーナメント戦については勝ちあがればあがるほど試合数が増えていきます。2007年シーズンの浦和レッズはチャンピオンズリーグ戦もあり、それに加えて日本代表戦も戦っていた鈴木啓太には、相当な疲労がたまっていました。

2008年、扁桃炎を患うと、故障も重なり苦しいシーズンを送ることになりました。チームも前年のリーグ戦2位から一気に7位に後退し、2009年からの立て直しを図るために27歳の鈴木をキャプテンに指名しました。自身も前年からの故障も癒えてフル出場を続けると、チームは序盤好調をキープし、前半戦を2位で折り返します。しかし夏場に公式戦8連敗するなど最終的には6位で終わりました。2010年もキャプテンを務めるも、細貝萌の台頭でレギュラーを奪われ、チームも10位と大きく順位を落とします。2011年から新監督が就任するも、鈴木は3年連続でキャプテンを任されました。しかし、覇権奪還どころか降格圏内に転落し、最終的にはJ1残留ギリギリの15位で終わるという屈辱を味わいました。

まさかの不整脈の発覚と、引退を決意させたワンプレー

自身がキャプテンの間は、大きく低迷しましたが、2012年はリーグ戦で3位に返り咲きます。そして2014年は、さらに息を吹き返します。途中、J1新記録の7試合連続完封を記録するなど首位に立ちました。しかし鈴木は、ベンチスタートも多くなり少しずつ出番が減少していました。さらに、11月には試合途中に突然の体調不良に陥り、ピッチを後にします。急遽ドクターの診断を仰ぐと、不整脈が発覚し全力プレーすることで再発の危険性が膨らむということも知らされました。しかしチームは久しぶりの優勝が目前に迫っており、最終戦に強行出場します。しかし自身のパスミスで逆転ゴールを奪われ、最大勝ち点7差をつけていたにもかかわらず、この敗戦で優勝を逃してしまいました。

戦犯につながる致命的なミス、そして自身の体調とも合わせると、鈴木には引退の二文字がちらつきました。2015年は、若手の台頭もあり、大きく出場機会が失われ自身初の一桁出場の4試合に終わり、ついにはクラブ退団を決意しました。他チームからのオファーもありましたが、16年間すべてを浦和レッズとして全うしたい考えが上回り、フランチャイズプレイヤーとしてスパイクを脱ぎました。

実業家へ転身し、アスリートの後方支援をする企業で奮闘中

サッカー選手が引退すると、指導者への道に進むことが多いですが、鈴木啓太は違った形での貢献を目指しています。2015年10月に実業家に転身すると、AuB(オーブ)株式会社の代表取締役に就任しました。同企業は、健康に大きな影響を及ぼすといわれる腸の中の細菌の群集「腸内フローラ」の解析を進めており、アスリートのパフォーマンスを向上させることを目的にしています。長い意味で、サッカー界への貢献を目指すと共に、比較的引退の早いサッカー選手たちにとって、セカンドキャリアの受け皿となる可能性も秘めています。


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