名前大野豊(オオノユタカ)
生年月日1955年8月30日
日本
出身島根県出雲市
プロフィール出雲一中1年生の時野球を初める。初めは外野手だったが、出雲商で投手に転向。本格的左投手として注目され、プロ、ノンプロから誘いがあったが、出雲市を離れられず、地元の信用組合に就職し、軟式野球で活躍。1976年暮、出雲高の練習を手伝い、5回で12三振を奪って自信をつけ、1977年2月広島のテストを受け合格。

以来“軟式出身のエース”と呼ばれ、活躍。最優秀防御率を記録、1988年には沢村賞を受賞した。1991年ストッパーに転じ、14連続セーブの日本新記録をマーク。同年最多SP、最優秀救援投手賞を獲得。1993年4月通算100セーブを達成。また、1996年5月リーグ最年長完封記録(40歳8ケ月)、1997年リーグ最年長勝利(41歳7ケ月)、同年投手最多実働年数のセ・リーグ新記録、史上最年長での最優秀防御率を達成。1998年シーズン終了後、引退。

一軍投手コーチののち、2000年NHKの野球解説者となる。2004年アテネ五輪、2008年北京五輪では投手コーチを務める。2010-2012年、再び広島コーチを歴任。2013年野球殿堂入り。

通算成績は707試合、148勝100敗138S、防御率2.90、2,231回0/3、1,733奪三振。最優秀防御率2回、最優秀救援投手1回、沢村賞1回、島根県功労賞。出雲商卒、出雲市信用組合出身、左投左打、177cm、75kg

軟式野球出身という異色の経歴ながら、ドラフト外で広島カープに入団

大野豊は、1955年島根県出雲市に生まれます。海のそばで幼少期を過ごし、砂浜で走って遊んだことから後に誰も真似することができないフォームを生んだ足腰が鍛えられました。中学時代に野球を始めましたが、母子家庭で育った大野は卒業後就職するつもりでした。しかし、母は高校卒業を強く望んだため出雲商業高校に進学します。2年生で本格的に投手として投げ始めると、すでにプロ入り後と変わらない重心が低い投球フォームが固まりました。その後、スカウトの目に留まるようになりましたが、地元で唯一野球部があった出雲信用金庫へ就職します。実際に窓口業務もこなし、3年間軟式野球を楽しみました。

しかしプロに入って、母をさらに楽にさせたいという思いが強くなり、自ら行動に移します。1976年秋、山本一義コーチに池谷公二郎投手が参加する野球教室でプロ入りする意思を示すと、たった一人の入団テストが企画されました。そのテストにパスし同年のドラフト外入団が決まり、軟式野球出身という異色の経歴を持ったプロ野球選手が誕生しました。

江夏豊の指導を受けて成長し、中継ぎ、抑えとして大きく頭角を現す

入団当初は、ドン・ブレイザーヘッドコーチにあの独特のフォーム矯正を命じられます。しかし、長年身体にしみ込んだものは簡単に変えられず、生涯同フォームで貫くことを決意しました。そして1年目のシーズン終盤、プロ初マウンドの機会が与えられましたが、衝撃的な数字を生み出してしまいます。満塁弾を浴びるなど5点を失い、アウトはたった一つしか捕れずに降板したため、防御率は135.00という考えられない数字が残りました。

しかし同年オフに、ベテラン左腕・江夏豊がチームに加入ると、同じ境遇で同じ名前の大野豊に対して付きっ切り指導がスタートします。後に武器となる変化球も伝授されると、2年目には早くも中継ぎの柱として頭角を現しました。さらにシーズン終盤には、同年2位と躍進したヤクルトの大記録をストップさせます。開幕から129試合完封負けなしできていましたが、最終戦で大野が先発として立ちふさがります。若松勉、大杉勝男、マニエルら強力打撃陣を押さえ込み、見事な初先発勝利を完封で飾りました。江夏がチームを去った後には、ストッパーを任されるなど数年間安定した成績を残しました。

先発に転向すると、沢村賞に2年連続防御率1点台など投手陣をリード

1984年から先発に転向すると、いきなり好結果を出します。同年は自身含めて二桁勝利投手が4人も輩出され、日本一に大きく貢献しました。大野豊は「七色の変化球」と称された武器に150キロ近い速球を織り交ぜて強力投手陣の一角となり、「精密機械」北別府学、「巨人キラー」川口和久らと長らくチームを支えます。

先発転向してから5年間で4度の二桁勝利を挙げて、1986年にはリーグ優勝に貢献しました。さらに1988年には13勝ながら、ともにリーグトップの14完投に防御率1.70が評価されて、初の沢村賞に輝きます。翌年は勝ち星にこそ恵まれませんでしたが、当時初めて2年連続防御率1点台を記録するという偉業を達成しました。

再び抑えに転向すると、メジャーオファーを呼び込む大活躍

1991年からチーム事情で、再び抑え投手へと転向します。同年は、津田恒実とのダブルストッパー構想でしたが、津田がまさかの闘病生活となり、大野豊だけがその重圧を背負いました。すると病床の津田を優勝旅行に連れて行こうとナインが一丸となり、逆転でリーグ優勝を決めます。大野は、14試合連続セーブの日本記録を達成し、6勝26セーブ、防御率1.17で初の最優秀救援投手に輝きました。

1992年も、5勝26セーブに防御率1.98、1993年も3勝23セーブ、防御率2.37と抑え投手として安定した成績を残します。するとその活躍が海の向こうのメジャーリーグでも話題となり、同年オフには公式な獲得オファーを受けます。38歳でのアメリカプレーはさすがに困難と考え実現しませんでしたが、大野の実力が証明された形でした。

年齢を感じさせないピッチングで、引退年にも開幕投手を担う

1995年から、再び先発投手に戻ると、二桁勝利こそあげられないものの年齢を感じさせないピッチングを続けます。2年間規定投球回数に届きませんでしたが、41歳で開幕を迎えた1997年は、チーム3位の9勝をマークして、防御率2.85で2度目の最優秀防御率のタイトルを奪いました。

さらに翌年は、史上最年長42歳にしてチームの開幕投手を任されます。しかし、持病の血行障害が悪化し、同年限りでの引退を決意します。引退試合では球場が満員となり、入団以来の重心が深いフォームで146キロのストレートを投げ込みました。43歳まで現役を続け、148勝138セーブ、通算防御率2.90という素晴らしい成績を残しました。先発かリリーフどちらかに固定されていれば、名球会入りも実現していたかもしれません。

現役引退後の指導者生活では、確たる成果を残せず

引退後は、古巣広島のコーチを2期にわたって務めます(1999年、2010年~2012年)。2010年からは統一球の影響もあって、年々チーム防御率向上に貢献しましたが、チームとしては上位進出できませんでした。

また2004年アテネ五輪、2008年北京五輪ではともに投手コーチを務めましたが、期待された金メダル獲得はともに実現できず、北京ではまさかのメダルなしに終わります。それでも現役時代の活躍が色褪せたわけではなく、2013年にはプレーヤー部門表彰で野球殿堂入りを果たしました。

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