名前桧山進次郎(ヒヤマシンジロウ)
生年月日1969年7月1日
日本
出身京都府京都市
プロフィール平安高から東洋大学に進み、2年の秋に首位打者を獲得。ベストナイン3回。

1992年ドラフト4位で阪神に入団。同年5月30日対巨人戦(甲子園)で初出場。1996年、レギュラー定着し22本塁打、73打点と長距離打者としてブレイク。しかし確実性が伴わず再びレギュラー降格の時期を迎える。2001年、選手会長を務めると、初の打率3割でレギュラー再奪取。2003年には、多くの試合で4番を務め18年ぶりの優勝に貢献。2004年、打率.306、84打点でキャリアハイを記録。

2006年以降は代打の切り札として活躍し、「代打の神様」と称される。通算代打起用回数、代打安打数、代打打点数ですべて歴代2位記録し2013年限りで現役引退。

通算成績は1,959試合、4,863打数1,263安打、159本塁打、707打点、41盗塁、打率.260。東洋大学卒、177センチ、78キロ、右投左打

東洋大学時代に打者として頭角を現し、阪神ドラフト4位で入団

桧山進次郎は、京都で生まれ物心ついたときから野球で遊んでいました。土地柄、幼少期から阪神タイガースのファンとなり、小学校入学するとソフトボール、4年生から少年野球チームで野球の実力をつけていきます。その後、甲子園出場の常連・平安高校に入りましたが、当時は部史上最長のブランク期であり、主将を務めた3年夏に至っては初戦で京都No.1進学校に敗れるという屈辱を味わいました。

卒業後、東洋大学へ進学すると、2年生で首位打者を獲得するなど大きく頭角を現します。大学日本代表に選出されるほどの有力選手となり、4年春には、主将としてリーグ優勝に貢献しました。大学時代ベストナイン3回の実績などが評価され、1991年阪神タイガースにドラフト4位で入団しました。

プロ4年目にレギュラー定着し、長打力で4番打者にも抜擢される

二軍スタートも、5月に初めて一軍に昇格すると初安打と順調に思えましたが、同年の一軍滞在はわずか2週間に終わります。プロ入り後に外野手へ転向したこともあって攻守にレベルの違いを感じた桧山進次郎はトレーナーをつけて体力強化を図りました。そのため、3年間はほぼ一軍二軍を行き来する日々が続きましたが、4年目の1995年から一軍に定着します。主に右翼手として試合に出続けるようになり、後半戦からはグレン、クールボーの両外国人、さらにはベテラン石嶺和彦らを差し置いて4番に抜擢されることもありました。

翌1996年は飛躍の年となり、130試合フル出場して、ともにチームトップの22本塁打、73打点と打線の格となります。1997年も23本塁打、82打点とその長打力で30試合程度4番を務めましたが、当時の阪神は毎年最下位を争う暗黒時代でした。

野村克也監督の配球術を武器に、10年目にして初の打率3割をマーク

1999年、チーム再建を託された野村克也が監督に着任しました。長打力はあったものの、打率は2割前半と確実性に欠ける桧山進次郎は、不遇の時を経験することになります。若手の台頭や新外国人の起用でレギュラーを剥奪されて、大きく出場機会を奪われました。2000年には、スタメン出場はわずか37試合に終わり、打率も.220と数字をさらに落としてしまいました。それでも練習に手を抜くことはなく、さらに野村監督から配球を読むスキルを身につけると翌年華麗に復活を遂げます。

選手会長に任命された2001年、レギュラーを再奪取し、プロ10年目にして初の打率3割を達成しました。かつて3年連続で100三振を喫していましたが、確実性を増すことによってその数も大幅に減らします。さらに2年間遠ざかっていた4番打者も最多の60試合で任されました。結局、野村監督時代も3年連続最下位で暗黒時代から抜け出せませんでしたが、桧山個人としては一皮向けました。

選手会長兼4番打者として、18年ぶりのリーグ優勝に貢献

2002年、闘将・星野仙一監督が着任し、阪神の歴史が一気に変わります。同年に最下位を抜け出して4位となると、2003年には大胆な血の入れ替えを敢行して、18年ぶりのリーグ優勝を実現させました。2番から赤星憲広、金本知憲、濱中治と外野手3人が並び、桧山進次郎はジョージ・アリアスや片岡篤史との併用の一塁手としてシーズンに臨み、開幕ダッシュに成功します。

しかし濱中が離脱すると、4番右翼手として59試合に出場しました(シーズン全体では111試合出場)。8月にはサイクルヒットを達成するなど安定した打撃を見せて、優勝に大きく貢献します。日本シリーズでも全7試合中6試合で4番を務め、優秀選手賞を受賞しましたがチームは惜しくも敗れました。

晩年は代打に転身して、八木裕に代わる代打の神様として君臨

2004年は4番金本知憲に続く5番打者に定着し、35歳にして打率.306、18本塁打、84打点と打率と打点でキャリアハイを記録しました。2005年から衰えが目立つようになり、徐々に出場機会が失われます。2006年には外野手レギュラーを剥奪され、代打としての起用がメインとなりました。しかし、たった1打席で結果を残すことは並大抵ではなく、同年からの代打率は.208、.186と結果を残せません。そこで、かつて代打で数字を残した八木裕を参考に自分なりのリズムを確立していきました。

そして2008年、その八木に代わる代打の神様として定着します。開幕から代打で結果を残し続け、交流戦ではスタメンに抜擢されるなどチームの戦力になります。同年は代打率.295と一気に上昇させ、通年でも打率.300を達成しました。その後も類まれな集中力を発揮し次々に代打記録を樹立していきます。2010年には球団の代打安打記録を更新し、2011年には球団新記録の代打通算14本塁打、球団3位の代打通算87打点と歴史に名を刻みました。

現役生活22年を阪神一筋で過ごし、最終打席は奇跡の本塁打

43歳で迎えた2013年シーズンも代打としてスタートしました。極度の不振を乗り越えて、代打通算100打点を記録するなど存在感を見せます。しかし、打率は2割を割り、同年での現役引退を表明しました。代打に転身してから8年間選手寿命を伸ばし、通算代打起用回数、代打安打数、代打打点数すべてで歴代2位の記録を樹立しました。引退試合では久しぶりに先発出場しましたが、3打数ノーヒットに終わります。

しかし、ドラマは本当の最終打席に用意されていました。同年リーグ2位に入り広島とのクライマックスシリーズへ進出します。1戦目を落とし、2戦目も9回2死で2-7と敗色濃厚でした。あと1アウトでシーズンが終わるという時、マートンが執念のヒットで出塁して桧山進次郎に打席のチャンスが生まれます。試合展開にも関わらず熱い声援を送ってくれたファンに対し、最高の一打で恩返しをしました。2球目にバットを一閃すると、阪神ファンでぎっしり埋まる甲子園のライトスタンドに惜別のアーチを放ちました。ポストシーズンの本塁打のため、通算本塁打数には加算されませんが、自身最高の一発となりました。同年オフにユニフォームを脱いで、阪神一筋22年の現役生活に別れを告げます。引退後は、解説者や野球評論家として第2の人生を歩み始めています。

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