名前 | 斎藤隆(サイトウタカシ) |
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生年月日 | 1970年2月14日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮城県 |
プロフィール | 東北高3年のとき夏の甲子園に出場。東北福祉大2年のとき内野手から投手に転向して大学球界を代表する右腕速球派に成長した。
1992年ドラフト1位で大洋(現・横浜)に入団。1996年206奪三振で、最多奪三振のタイトルを獲得。1997年開幕前に遊離軟骨除去手術を受ける。1998年4月1年7ケ月ぶりに復帰。同年カムバック賞受賞。2001年ストッパーとして活躍。2003年からは再び先発転向するも3年間低迷が続く。 2005年オフ、36歳にしてメジャー挑戦を表明しロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約。開幕もマイナーでせいたが、メジャー昇格すると、好成績を残しクローザーの座を確保。6勝24セーブでチームのプレーオフ進出に貢献。翌年も2勝39セーブに防御率1.40と完全に守護神を務める。 2009年以降も、メジャー4球団を渡り歩き、ベテラン中継ぎ投手として活躍。2013年から楽天と契約。同年も中継ぎとして活躍し、球団創設初の日本一に貢献。2015年限りで現役引退。 NPB時代の通算成績は403試合、91勝81敗55S、14ホールド、防御率3.75、1,575回0/3、1,331奪三振。最多奪三振1回、カムバック賞。 MLB時代の通算成績は338試合、21勝15敗84S、40ホールド、防御率2.34、338回、400奪三振。東北高校卒、東北福祉大学卒、右投左打、188センチ、87キロ。 |
高校、大学と佐々木主浩と同じ道を歩み、プロでもチームメイトになる
斎藤隆は、宮城県に生まれ、小学生時代から父親が監督を務めるチームで野球を始めます。6年になるとリトルリーグに転向し全国大会にも出場しました。南小泉中学校を経て、県下の強豪・東北高校に進学します。2学年上の先輩に佐々木主浩や葛西稔がおり、自身1年夏には、チームが甲子園でベスト8入りしました。偉大なる先輩たちの背中を追って、3年夏には一塁手として甲子園出場を決めます。しかし2回戦では、帝京高校の芝草宇宙にノーヒット・ノーランを達成されました。
高校卒業後、佐々木と同じく東北福祉大学へ進学すると、2年時に大きな転機が訪れます。遊び感覚でブルペンでの投球を見た監督が、投手への転向を指示しました。すぐさま本格派速球右腕として頭角を現し、4年ではチームを大学日本一へ導きます。日米野球代表にも選出され、プロ注目の的になりました。1991年ドラフト会議では、横浜大洋ホエールズと中日ドラゴンズが1位指名で競合し、不思議な縁で佐々木と三度同じチームの横浜への入団が決まりました。
先発ローテーション投手として定着し、5年目に初の二桁勝利
ルーキーながら開幕第3戦に先発抜擢されるなど、大きな期待をかけられましたが、怪我で離脱し、同年は6試合登板に終わりました。しかし2年目から先発ローテーション投手に定着します。プロ初勝利もあげて、野村弘樹に次ぐチーム2番目の勝ち頭となりましたが8勝と、二桁勝利達成はなりません。その後もローテーションこそ守り、3年連続で防御率3点台でしたが、シーズン負け越しも3年連続でした。
プロ5年目の1996年、4月に月間MVPを奪い順調なスタートをきります。前年までと比べて安定感を増すと、同年初めて二桁勝利を達成しました。初めて200奪三振をオーバーし、206個で最多奪三振のタイトルも奪いましたが、その反面被本塁打も多くリーグワーストの31本を喫しました。翌年、開幕投手が内定していましたが、右肘に遊離軟骨が発見され手術のため1年を棒に振りました。
カムバック賞を奪う活躍で、横浜38年ぶりの日本一に大きく貢献
入団以来チームはBクラスに低迷していましたが、斎藤隆が不在だった1997年、2位と一気に躍進していました。そして優勝を狙う1998年4月、まずは中継ぎとして復活登板を果たします。中盤以降、先発に復帰すると勝ち星を積み重ね、ともにチームトップの13勝に防御率2.94とチームをさらに上昇気流に乗せました。そして38年ぶりのリーグ優勝を実現させるとカムバック賞を手にします。日本シリーズでも第2戦で完封、第5戦でも7回2失点と2勝を上げて、日本一に大きく貢献しました。
クローザー転向も無難にこなし、2年トータルで47セーブをマーク
1999年、14勝3敗とキャリアハイの勝利数を稼ぎましたが、2000年は大きく数字を落とします。2001年からは、佐々木主浩のメジャー移籍によって穴となっていたクローザーに抜擢されました。いきなりリリーフの難しさを経験しますが、7勝1敗27セーブ、防御率1.67という成績で見事に穴を埋めます。2002年も1勝2敗20セーブとクローザーとして仕事をしましたが、同年チームは最下位に沈みました。
2002年オフ、FA権でのメジャー移籍を目指しましたが、時期が悪く実現しません。2003年からはチーム事情で再び先発に戻りましたが、3年間で一度も規定投球回数に到達せず、年齢的なことから限界説すら囁かれるようになりました。
36歳でメジャー挑戦すると、ドジャースクローザーに上り詰める
2005年トレード話すら噂されましたが、斎藤隆は36歳にしてメジャー挑戦を表明しました。高齢もあってメジャー契約を勝ち取れず、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を交わして海を渡ります。そのまま開幕はマイナーでしたが、直後に正クローザーのガニエが怪我による離脱でメジャー初昇格するチャンスが芽生え、アメリカンドリームがスタートしました。
敗戦処理ながら完璧に抑えていくうちに中継ぎ、そしてクローザーへと自身の地位を上げていきます。チームも好調をキープして、プレーオフ進出にマジック1とした試合でも、斉藤が9回を抑えて見事に胴上げ投手となりました。同年は72試合に登板し6勝2敗24セーブ、防御率2.07と完全にチーム躍進の原動力となりました。
翌2007年は開幕からチームのクローザーを務め、オールスターにも選出されます。メジャーのマウンドがよほどあうのか、日本人メジャー最高球速99マイル(159キロ)も計測しました。同年も安定感あるピッチングを披露し、63試合、2勝1敗39セーブ、防御率1.40という素晴らしい成績で、サイヤング賞候補にすら名前が挙がりました。
年齢を感じさせない投球を見せメジャー7年間で84セーブ40ホールド
ドジャース3年間で81セーブを上げた右腕は、その後もメジャーリーグ球団に必要とされ続けます。2009年から1年ごとに所属チームが変わるジャーニーマンとなりましたが、成績は安定していました。
主に中継ぎとして、ボストン・レッドソックス、アトランタ・ブレーブス、ミルウォーキー・ブルワーズと渡り歩き、3年連続で防御率2点台をキープします。2012年に所属したアリゾナ・ダイヤモンドバックス時代は故障期間が長く、16試合の登板に留まりました。当初、活躍は無理と思われながらもメジャー7年間で84セーブ、40ホールドを積み上げ、5度のプレーオフでもその実力を十二分に発揮してメジャー挑戦を終えました。
故郷・東北で楽天の日本一に貢献して、通算23年の選手生活を終える
すでに42歳だった斎藤隆は、現役最後の地に故郷仙台を選び、東北楽天ゴールデンイーグルスの一員となりました。2013年、開幕こそ出遅れましたが、5月以降安定したピッチングで、リリーフ投手の精神的支柱としても活躍します。終盤には代役クローザーも務めるなど、30試合3勝0敗4セーブ、4ホールド、防御率2.36と球団創設初優勝に貢献し、さらには日本一も経験しました。
翌年も、44歳ながら安定したピッチングを見せて最年長勝利記録を樹立します。そして、2015年、通算23年目のシーズンに突入しましたが、ついに限界を迎え同年限りで引退を表明しました。日本プロ野球時代の16年よりも、メジャー7年間の通算防御率のほうがはるかにいい数字を残した稀有な選手でした。