名前東尾修(ヒガシオオサム)
生年月日1950年5月18日
日本
出身和歌山県
プロフィール1969年ドラフト1位で西鉄に入団。

以来、太平洋、クラウン、西武を通じてエースとして活躍。1987年には投手として初の1億円プレイヤーとなった。MVP2回、最多勝2回、最優秀防御率1回を獲得し、1988年引退。

野球評論家を経て、1994年11月西武監督に就任。1997年10月3年ぶりのリーグ優勝に導く。1998年10月リーグ2連覇を達成。2001年シーズン終了後、退任。2010年野球殿堂入り。長女はプロゴルファーの東尾理子で娘婿は石田純一。

通算成績は697試合、251勝247敗23S、防御率3.50、4,086回0/3、1,684奪三振。最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回、MVP2回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回。箕島高卒、右投右打、177cm、79kg

箕島高校の甲子園初出場を導き、本戦でもエースとしてベスト4

東尾修は和歌山県に生まれ、御霊小学校時代から野球を始めます。中学3年でようやくチームのエースになりましたが、県で上位に行くチームレベルではありませんでした。高校では憧れの甲子園に出場するために、つてがあった京都の名門・平安高校に進むことを決意します。試験にも合格し卒業を待っていた時、箕島高校野球部監督の尾藤公が訪れました。尾藤自身も箕島高校OBであり、チーム初の甲子園出場のために東尾がどうしても必要であることを説き続け、何とか説得に成功したのでした。

そしてエースで4番としてチームの中心に成長すると、2年秋に近畿大会で躍動します。2回戦ではノーヒット・ノーランを達成するなど決勝戦まで進みました。決勝では自身が行くはずだった平安高校に敗れましたが、ついに箕島の甲子園初出場が決まります。本戦でも順調に勝ち上がり、順々決勝では強豪・広陵高校も撃破しました。準決勝で同大会の優勝校・大宮工に敗れましたが、箕島の甲子園歴史の一ページを刻んだのは東尾の右腕でした。

黒い霧事件で多くの登板機会が与えられると、経験を自信に変える

1968年ドラフト会議で、西鉄ライオンズから1位指名を受けます。東尾修の両親は、本拠地が九州であることを理由に猛反対しましたが、プロの1位指名を誇りに思い、両親を説得して入団を決意しました。しかし、1年目はプロの厚い壁を越えられず、わずか8試合の登板に留まります。レベル差を肌で感じ、自信も失っていましたが、球団にまさかの事件が起こりました。

同年オフ、「黒い霧事件」と呼ばれる八百長事件が発覚し、1970年開幕直後に西鉄の主力選手数人が永久追放となってしまいます。もはや実力云々ではなく、投手がいなくなり投げざるを得ない状況となりました。中2日や中3日で先発し、さらにリリーフでも投げるというシーズンが続き、実戦で経験を積んでいきます。毎年50試合前後に登板したため、2年目に二桁勝利を達成しましたが、1971年からは2年連続でリーグワーストの敗戦数も喫しました。しかし一軍での1試合、1勝は大きな自信となり、1975年には23勝15敗で、最多勝で最多敗戦というレアな記録も残しました。

西武の初優勝に貢献し、黄金時代初期を支えたエースとして君臨

以後、球団の経営母体やスポンサーが変わり、球団名も太平洋クラブ・ライオンズ、クラウンライター・ライオンズ、西武ライオンズと変遷を遂げます。そして西武ライオンズ初代監督の根本陸夫は、フロント職も兼ねて新たなチーム作りに着手しました。すでに通算100勝をあげていた東尾修は球団に残り、新戦力が整備されるまでエースとしてチームを支えます。

そして広岡達朗が監督に着任した1982年から常勝軍団として生まれ変わりました。管理野球に反発しながらも、同年プレーオフを制して西武として初のリーグ優勝を達成し、日本シリーズへ進出します。シーズンでは先発の柱であった東尾をリリーフに回すという大胆な作戦が功を奏し、4勝2敗で日本一に上り詰めました。東尾は2勝1敗1セーブと4勝中3勝に絡む活躍を見せてシリーズMVPを獲得します。翌1983年は2度目の最多勝に輝き、日本シリーズも連覇も達成しました。

投打ともに戦力がさらに充実し、1985年からはリーグ4連覇、そして日本シリーズ3連覇と西武ライオンズは黄金時代を迎えます。すでにベテランとなっていましたが、東尾は6年連続二桁勝利などでその屋台骨を支え、1986年オフには落合博満とともに日本プロ野球史上初の年俸1億円プレイヤーとなりました。

死球も辞さないケンカ投法で、パ・リーグを代表する大投手に成長

東尾修は、激動の西鉄ライオンズ終焉期に、鍛え上げられて若きエースとなりました。剛速球をもっていたわけでもなく、特に晩年は打たせてアウトを捕るピッチングスタイルでした。そして何より代名詞と鳴ったのが、ケンカ投法とも呼ばれた決め球のシュートです。打者の懐を深くえぐり、腰を引かせてスライダーで打ち取るという必勝パターンを確立させていました。しかし、少しの投げミスで死球を与えてしまうことも多く、165与死球は2016年現在でも日本記録です。外国人相手にもひるむことなく向かっていく度胸満点の投手でした。

同年代の山田久志(阪急)、村田兆治(ロッテ)、鈴木啓示(近鉄)らとしのぎを削り、パ・リーグを代表する投手として昭和の香りを漂わせていました。オンとオフの切り替えも激しく遊びも豪快でしたが、1987年にはシーズンMVPに輝き優勝旅行に旅立つ前日に、麻雀賭博が発覚しました。半年間の出場停止処分を受け、1988年は6勝を挙げましたがその年に現役を引退しました。

西武監督として2年連続優勝を達成するも、日本一は実現できず

現役引退後、野球解説者として過ごしていましたが、1995年から西武ライオンズ監督として指揮を執ります。前年までリーグ5連覇中のチームを引き継ぐという大きなプレッシャーを背負っての就任でした。しかも、打線の中軸だったデストラーデが1993年から、秋山幸二も1994年からチームを去っており、同年からは主将の石毛宏典、エースの工藤公康もダイエー移籍という黄金時代を知るメンバーはほとんど不在となりました。

監督初年度、残ったメンバーで優勝争いに加わるも、イチロー率いるオリックスとの直接対決にことごとく破れ3位に終わります。連続優勝が途絶え、2年ぶりに優勝を目指した1996年も低迷は続き、2年連続3位に終わりオフには4番清原和博もFA移籍しました。

しかし1997年、前々年から使い続けた松井稼頭央の活躍、4番に抜擢した鈴木健、さらには新外国人マルチネスらが大活躍します。投手陣も西口文也、潮崎哲也、石井貴、豊田清らが二桁勝利をあげて3年ぶりのリーグ優勝を成し遂げました。翌年もリーグを制し2連覇しましたが、2年連続で日本シリーズでは勝てません。1999年にはゴールデンルーキー松坂大輔が入団しましたが、福岡ダイエーホークスが台頭し始め、同年から3年連続で優勝を逃し2001年限りで監督を退任しました。その後は、特定球団のユニフォームを着ることなく野球解説者として過ごしています。2010年には、現役時代の功績が評価されて、野球殿堂入りを果たしました。

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