名前大島康徳(オオシマヤスノリ)
生年月日1950年10月16日
日本
出身大分県中津市
プロフィール中学時代はバレーボール選手。高校から野球を始め、エースで4番打者となる。

1969年ドラフト3位で中日に入団。内野手に転向して1972年にはレギュラーポジションを獲得。1979年36本塁打を打ち本塁打王を獲得、以後谷沢健一とともに中日の主力打者として活躍。その後、打撃をいかすため左翼手となり、1983年には36本塁打で山本浩二と本塁打王を分け合った。1986年球団初の通算300本塁打を記録。

1988年から日ハムに移籍。1990年史上25人目の通算2000安打を達成。1993年史上5人目の2500試合出場も達成。1994年シーズン終了後引退。

同年12月NHKのプロ野球解説者となる。2000年日本ハム監督に就任。3位、最下位、5位と3年間で優勝できず、2002年オフ解任。2006年、第1回WBC日本代表打撃コーチとして参戦し、日本の優勝に貢献。

通算成績は2,638試合、8,105打数2,204安打、382本塁打、1,234打点、88盗塁、打率.272。本塁打王1回、最多安打1回。中津工卒、右投右打、182cm、85kg

高校時代から野球を始めると、テストを経て中日ドラゴンズ入団

大島康徳は、1950年大分県中津市に生まれます。野球を始めるのは、意外にもかなり遅く高校生になってからでした。小学生時代からテニスに打ち込み、中学では有名バレー選手となり、オリンピックで金メダルを目指すほどの逸材となります。また体の大きさを買われて、相撲部に助っ人参加すれば優勝してしまうほどスポーツ万能でした。しかしその相撲部での様子を見た中津工業の監督が、大島の素質に惚れ込み野球の世界に入ります。すると、すぐにエースで4番とチーム中心選手に躍り出ました。1968年、中日の入団テストに参加したところ、二軍監督の本多逸郎の目に留まりドラフト3位指名を受けます。そして投手として入団するも、当時の一軍監督・水原茂に打者転向を言い渡されました。

レギュラー定着できない日々が続くも、代打本塁打日本記録を樹立

野球を始めてからの時間が短い大島康徳は、入団後しばらく二軍暮らしが続きました。しかし3年目の1971年、レギュラー外野手の故障で突如先発に抜擢されます。すると同試合で初安打、さらには最終打席で3ランを放つ非凡さを見せました。さらに続くジュニアオールスターでも中軸に座ってMVPを手中に収めます。その後も、同年は一軍で7本塁打、22打点と長打力を見せましたが、打率は.203と低迷しレギュラー獲得には至りませんでした。

しかし1972年、新監督の与那嶺要は大島をレギュラーに抜擢します。時には3番打者に据えられて、14本塁打、38打点とスラッガーとしての素質は垣間見せましたが、打率はリーグ29位と安定感がありません。すると翌年から徐々に出場機会が減り続け、代打起用に甘んじるようになりました。それでも、大島は自身の魅力である長打力にこだわります。1976年には代打だけで7本塁打(通年は11本塁打)と、当時の日本記録を樹立して大きくアピールしました。

プロ9年目から長距離打者として定着し、本塁打王タイトルも獲得

8年間レギュラーに定着できず、1976年オフは一念発起して基礎練習に明け暮れました。同時期に、白血病で兄を若くして亡くしたことも発奮材料にすると、9年目一気に才能を開花させます。1977年、当初は外野手スタートした大島康徳でしたが、三塁手レギュラーに定着すると、別人のように打撃成績を向上させました。同年は打率.333(リーグ4位)、27本塁打、71打点という好成績を残します。終盤は不動の5番打者として活躍し、以後中日のレギュラーに定着しました。

その後、隔年での活躍となったものの、1979年には全試合で4番スタメンで出場し打率.317、36本塁打、103打点と打撃3部門すべてでリーグ3位以内に入りました。1982年には自身がレギュラーとして初の優勝も経験します。そして1983年には36本塁打で、山本浩二(広島)と本塁打王を分け合い、初の打撃タイトルを手にしました。この頃から打率3割に届くことはなくなりましたが、長打力は健在で、1986年には球団史上初の300本塁打を記録しました。

日本ハムへトレード移籍し、当時最年長で通算2000本安打達成

1987年オフ、すでに37歳とベテランでしたが、長距離打者不在の日本ハムファイターズへのトレード移籍が決まります。力の衰えは見られたものの、クリーンナップとして貢献し、移籍後2年連続でフル出場を達成しました。そして翌1990年、通算2000本安打という大記録も達成します。レギュラー定着したのが遅かったこともあって、当時としては史上最年長39歳10ヶ月での達成でした(後に谷繁元信が更新)。

翌年も40歳ながら120試合出場しましたが、さすがに年齢から来る衰えは隠せないようになり、1992年からは出場機会が激減します。1994年は、代打の切り札として、打率.323、22打点、得点圏打率.371という好成績を残しましたが、同年で長い現役生活に別れを告げました。守備に難がありながらも、内野手、外野手それぞれで1000試合出場という記録を作り、生涯382本塁打を放ちましたが一度もベストナインに選ばれることはありませんでした。

指導者として、日本ハム監督3年に、WBC日本代表コーチも務める

現役引退後は、NHKの解説者として長らく過ごし、2000年から日本ハム監督に就任します。当時はビックバン打線と呼ばれる攻撃力はありましたが、逆に投手陣は弱く前年は5位と沈んでいました。2000年のチームも、前年とほぼ同じでしたが、攻撃力はさらにアップし、チーム打率、本塁打数、得点数、盗塁数がすべてリーグトップと優勝争いに参戦します。しかし、二桁勝利達成者がたった一人しか現れずチームも3位に終わりました。投手陣の整備ができれば、上位進出を狙えましたが、翌年その希望はあっさりと打ち砕かれます。前年から好調を維持したのは、小笠原道大のみとなり、さらに投手陣も崩壊し5位に10ゲーム以上離される最下位に転落しました。再起を賭ける3年目、前半戦こそ貯金1で折り返しましたが、後半に大きく失速し5位に終わります。そして同年オフには、監督解任となりました。

その後特定球団のユニフォームを着ていませんが、2006年第1回WBCには打撃コーチとして参戦します。王貞治監督を支え、悲願の世界一を達成した際には、大粒の涙をこぼしました。以後、再び解説者生活に戻りましたが、2017年自身のブログにて癌に侵されていることを公表します。ステージ4を告知されても、希望を捨てることなく病気と闘っています。


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