名前権藤博(ゴンドウヒロシ)
生年月日1938年12月2日
日本
出身佐賀県鳥栖市
プロフィールブリヂストンを経て1961年中日入り。

同年最優秀・最多勝投手、新人王、沢村賞を獲得、ベストナインにも選ばれた。1962年にも30勝(最多勝)したが、梅雨のシーズンは連投に次ぐ連投でまさに“権藤、権藤、雨、権藤”のローテーション。だが3年目に肩を痛めて内野手に転向し、1968年に現役を引退。

退団後、1973年から11年間中日コーチをつとめ、1988年〜1989年近鉄コーチ、1991〜1993年ダイエーコーチ、1997年横浜コーチ。同年シーズン終了後、監督に就任。1998年同球団を38年ぶりのリーグ優勝と日本一に導く。2000年シーズン終了後、退任。2012年、73歳にして中日投手コーチに復帰するも1年で退任。2016年、第4回WBC日本代表投手コーチに就任。

通算成績は210試合、82勝60敗、防御率2.69、1,136回0/3、667奪三振。最多勝2回、最優秀防御率1回、最多奪三振1回、新人王、沢村賞1回、ベストナイン1回。鳥栖高卒、右投右打、177cm、73kg

高校3年から投手を始め、社会人時代に無敵の成績を残してプロ入り

権藤博は、佐賀県に生まれ幼少の頃から野球を始めました。中学時代は三塁手を務めていましたが、鳥栖高校3年時、投手不在となりやむを得ず投手に転向します。そして、甲子園佐賀県予選では準決勝まで進出しましたが、甲子園進出は叶いませんでした。この時点で実力を評価されて、西鉄ライオンズからスカウトを受けましたが、拒否して社会人野球に進みます。

ブリヂストンタイヤに入社し、野球部に入ると、ほぼ同年代でありながら鉄腕と言われていた稲尾和久を参考にダイナミックなフォームに変更しました。すると、社会人では無敵となり、1960年の都市対抗野球大会では日鉄二瀬の補強選手として活躍します。すると前年まで日鉄二瀬の監督で、中日二軍監督だった濃人渉の目に留まり、獲得に乗り出しました。ただ、権藤はブリヂストン時代の2年間、100イニングでわずか3失点という異次元の成績を残していたため争奪戦となります。巨人など多額の契約金を提示した球団もありましたが、最初に声をかけてくれた中日への入団を決めました。

いきなり大黒柱として活躍し、2年間で130試合出場65勝をマーク

1961年、濃人渉が一軍監督に昇格して、権藤博には大エース杉下茂がつけていた背番号20が与えられます。オープン戦でも、10試合で防御率0.31という驚異的な成績を残し、シーズンがスタートしました。そして、開幕第2戦に初先発初勝利をマークすると、そこから3試合連続完投と新人ながら中日エースへと名乗りを上げます。権藤の大活躍で、中日は優勝争いに加わり、1954年以来2度目の優勝の可能性が訪れました。濃人はこのチャンスを逃したくないため、来る日も来る日も権藤をマウンドに送ります。

あまりの登板の多さに「権藤、権藤、雨、権藤」と揶揄されましたが、結局、シーズン全試合数の約半数にあたる69試合に登板しました。429回1/3という2016年末現在でもセ・リーグ記録の投球回を投げ抜き、35勝19敗、防御率1.70という好成績を残します。最多勝、最優秀防御率、最多奪三振のタイトルを獲得し、沢村賞に新人王と賞を総なめにしましたが、中日は2位に終わりました。

さらに翌年も61試合に登板して30勝17敗、防御率2.33で2年連続最多勝を獲得します。2年で130試合登板という、現代野球の先発投手では考えられない数字を残しましたが、この酷使によって、権藤の選手生命は大きく縮められることになりました。

過酷な登板過多で投手生命は失われ、選手生活は8年に終わる

2年で約800イニング近くの投球回という酷使は、権藤博から球威を奪います。1963年、10勝12敗と3年連続二桁勝利こそ達成するも、あらゆる数字が急降下し、肩の痛みが収まらなくなります。1964年もマウンドに立ちましたが、6勝11敗、防御率4.19に終わり、かつての輝きを完全に失ってしまいました。

プロ5年目の1965年には、高校時代まで務めていた内野手に転向します。1967年にはリーグ最多犠打をマークするも、非力感は否めず打率1割台とほとんど戦力になれませんでした。1968年に4年ぶりに投手へ再転向しましたが、往年の力は戻ることなく同年で引退となりました。

自身の経験を生かして、投げ込み不要論を提唱する投手コーチへ

30歳でユニフォームを脱ぐことを余儀なくされた権藤博は、プロゴルファーを目指す時期もありましたが、野球指導者の道を進みます。アメリカでのコーチ留学後、中日二軍コーチを実に8年間務めました。1981年、一軍監督に近藤貞雄が着任すると、一軍投手コーチに昇格し投手分業制の必要性もが受け入れられます。そして先発、中継ぎ、抑えと役割分担を明確化させ、1982年には中日に優勝をもたらしました。

その後も、近鉄バファローズ、福岡ダイエーホークスでもコーチに就任し、自らの体験から投げ込み不要論を提唱します。しかし投手起用をめぐる監督との対立は避けられず、中日コーチ時代とは異なり短年でチームを去っていました。

横浜監督に着任すると、放任主義を貫き38年ぶりの日本一達成

1997年には、大矢明彦が監督を務める横浜ベイスターズの投手コーチに就任しました。すると前年リーグ最下位だったチーム防御率を1点近く改善させ、横浜の2位躍進に大きく貢献します。そしてベイスターズは、2年契約が終了した大矢監督の後任監督として権藤博に白羽の矢を立てました。すると従来の監督イメージを壊し、独自の権藤流ルールを徹底します。基本的にはメジャー流の放任主義をとり、中継ぎにもローテーション制を取り入れました。当時横浜は打ち出したら止まらないマシンガン打線が完成していたことと、リリーフエース佐々木主浩というジョーカーを持っていたため、順調にペナントレースを勝ち進みます。チームは前年からの好調をそのまま維持し、38年ぶりとなるリーグ優勝、日本一を獲得します。その後も、2000年まで合計3年間監督を務めましたが、すべてAクラスという横浜監督史上、最高の成績を残しました。

70歳を超えても理論は必要とされ、WBC投手コーチも歴任

その後しばらくは、球界から遠ざかり野球解説者として過ごしていましたが、2012年、73歳にして中日投手コーチとして復帰します。しかし、当時71歳だった高木守道監督とは投手起用で何度も意見が対立し、1年で退任しました。それでも卓越した理論を持つ権藤博は、2016年、第4回WBC日本代表投手コーチに抜擢されます。当初不安視されていた侍ジャパン快進撃の一翼を担いました。


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