井上康生について
名前 | 井上康生 |
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生年月日 | 1978年5月15日 |
国 | 日本 |
出身 | 宮崎県宮崎市 |
プロフィール | 5歳から警察官で柔道5段の父に指導を受ける。小学生時代に全国少年柔道大会で2連覇、中学でも全国大会やジュニアの国際大会で優勝。東海大相模高に進学。95年インターハイ個人優勝。96年全国高校選手権で個人、団体ともに優勝。同年全日本選手権関東地区予選で優勝、高校生では山下泰裕以来21年ぶりに全日本選手権に出場。同年全日本ジュニア柔道選手権95キロ超級で優勝。同校柔道部主将を務めた。
97年、東海大学に進学。同年全日本学生体重別で優勝。他にオーストラリア国際、正力杯、講道館杯100キロ級(旧95キロ級)でも優勝。98年国際学生柔道100キロ超級で優勝。同年全日本選手権2位。同年全日本学生体重別100キロ級2連覇。12月バンコク・アジア大会金メダル。99年10月世界選手権で金メダル。00年フランス国際100キロ級オール一本勝で金メダル。同年全日本選抜体重別選手権100キロ級で優勝、全日本選手権で2位。同年シドニー五輪ではすべて1本勝ちし金メダルを獲得。大会開会式では旗手を務めた。 01年、綜合警備保障に入社。同年全日本選抜体重別選手権で2連覇。同年全日本選手権では4連覇を目指す篠原信一を下し初優勝。7月世界選手権2連覇。得意技は右内また、大外刈り、大内刈り。183センチ、100キロ。4段。 |
実力で圧倒し、高校生で全日本選手権出場
井上康生が柔道に初めて触れたのは5歳の時でした。警察官で柔道5段の有段者だった父の影響でした。子供の頃から恵まれた体躯を誇っていた井上はすぐに才能を開花させ、小学生の頃にはすでに全国少年柔道大会で2連覇を飾るなど、その実力は早くも知られていました。中学時代にも井上は全国大会やジュニアの国際大会で優勝し、アマチュア柔道界では知らぬものがいないという圧倒的な成績を収めていきます。
さらなる活躍を目指すため、井上は高校進学時に地元の宮崎県ではなく、神奈川にあるスポーツ名門校の東海大相模へ進学しました。ここでも井上の実力はとどまるところを知らず、95年のインターハイに17歳で出場した井上は個人優勝を飾ります。さらに高校時代の井上のハイライトとなったのが翌96年でした。
この年、井上は全国高校選手権で個人、団体ともに優勝を飾っただけでなく、全日本選手権関東地区予選で優勝します。これにより井上は高校生では山下泰裕以来21年ぶりとなる全日本選手権に出場を果たします。さらに全日本ジュニア柔道選手権でも95キロ超級で優勝し、東海大相模の柔道部主将として恥じぬ活躍を見せました。
大学進学後も持ち前のポテンシャルを発揮
高校時代に圧倒的な実力を見せた井上康生は当然、大学進学後にも柔道をすることを望みます。そして、東海大相模の系列校にあたる東海大学へ97年に進学します。大学進学後も井上の実力は変わらず、相手を圧倒し続けました。
大学進学間もなくに行われた全日本学生体重別で井上は優勝したのを皮切りに、オーストラリア国際、正力杯、講道館杯100キロ級でも優勝し、この部門の大学生として最強とも称されるようになります。
翌98年も井上の快進撃は続き、国際学生柔道では100キロ超級で優勝し、全日本選手権では2位に食い込みます。さらに全日本学生体重別でも100キロ級を前年に続いて優勝して2連覇を達成します。12月にはバンコク・アジア大会で金メダルを奪取します。さらにシドニーオリンピック前年となった99年には10月に行われた世界選手権で金メダルを獲得しました。オリンピックでの金メダルの期待も必然的に高まっていきました。
シドニー五輪で金メダル。篠原を破り王座へ
大学生が獲れるタイトルを欲しいままにしてきた井上康生。2000年に入り、いよいよシドニーオリンピックイヤーになりました。井上はこの年、オリンピックのメダル候補として期待されましたが、その前から活躍を収めます。
まずはフランスで行われたフランス国際100キロ級、井上はこの大会でオール一本勝ちを収めての金メダルを獲得します。シドニーオリンピック前からすでにメダルを奪取しました。さらに全日本選抜体重別選手権では100キロ級で優勝を飾りました。全日本選手権でも2位に入り、万全の状態でシドニーオリンピックを迎えます。
そのシドニーオリンピック、井上は開会式で旗手を務めただけでなく、男子100キロ級に出場し、すべてで一本勝ちを収めました。圧倒的な実力差を見せつけて、金メダルを獲得します。この表彰式で井上は前年にくも膜下出血で亡くなった母の遺影を掲げ、大きな感動を呼びました。
オリンピックの金メダリストとなった井上は01年3月に大学を卒業し、4月からは社会人として綜合警備保障に入社しました。ここでも井上は柔道の道を続け、日々のトレーニングに励みます。そして、この年に行われた全日本選抜体重別選手権では前年に続いて100キロ級で優勝を飾りました。そして、ここまで2位に終わっていた全日本選手権に臨みます。
全日本選手権で井上の最大のライバルとなっていたのが篠原信一でした。この大会で篠原は4連覇を目指していましたが、井上は篠原と決勝戦で対戦しました。毎回のように敗れていた井上ですが、金メダリストとなったことが自信になったのか、この大会では篠原を寄せ付けずに圧倒、念願の全日本選手権優勝を飾りました。この大会で敗れた篠原から日本柔道界の新エースを襲名し、篠原に引導を渡すことになりました。そして、7月に行われた世界選手権でも井上は優勝して2連覇を達成するなど、アスリートとしてのピークを迎えました。
全日本柔道選手権で引導を渡され、引退へ
篠原信一を全日本選手権で破って以来、柔道王の座に就いた井上康生。このクラスでは圧倒的な力を見せつけ、その後の全日本選手権では02年、03年と優勝し、3連覇を飾ります。
2大会連続でのメダル獲得を期待されたアテネオリンピックが開催された04年、井上も当然のようにそのタイトルを獲得に臨みますが、4月に行われた全日本選抜柔道体重別選手権大会100キロ級で優勝はしましたが、それから間もなく行われた全日本柔道選手権大会では決勝で敗れて準優勝。4連覇の夢は脆くも崩れ去り、オリンピックのメダル獲得に暗雲が立ち込めるようになりました。
そうして迎えたアテネオリンピック、井上は当然のように100キロ級の選手として選出されますが、準々決勝でオランダのエルコ・ファンデルヘーストに背負い投げを喰らい、まさかの一本負けを喫します。敗者復活戦に回りますがも、3回戦でアゼルバイジャンのミラリエフに大内刈りを返されて、またも一本負け、オリンピック金メダル連覇の夢は崩れ去ってしまいました。
その後の井上はそれまで勝てていた大会でも勝てなくなり、次第に若い勢力が伸びてきたため、井上はかつて自身が破った篠原信一のように若い選手たちに追いやられるようになります。
そんな中で迎えた08年、この年は北京オリンピックがあり、3大会連続の出場を目指した井上ですが、代表選考に重要な全日本柔道選手権で高井洋平に敗れてしまい、北京オリンピック100キロ超級の代表権を失ってしまいます。これが尾を引く形で井上はこの大会から1ヵ月後に現役引退を表明します。
ちなみにこの全日本柔道選手権を制したのは石井慧。北京オリンピックでも100キロ超級で活躍し、かつての井上のように金メダルを獲得します。
その後、井上は指導者の道を歩み始め16年のリオデジャネイロオリンピックの際には日本代表監督に就任しました。男子は金メダル2個を含む7階級全てでメダルを獲得し、低迷が続いていた男子柔道を復活に導きました。