名前荒木大輔(アラキダイスケ)
生年月日1964年5月6日
日本
出身東京都調布市
プロフィール1980年早実高校の一年生投手として、夏の甲子園へ出場、1回戦から44イニング1/3の5試合連続無失点を記録。1981年、1982年と5シーズン連続エースで出場。

1983年ドラフト1位でヤクルトに入団。1985年夏から一軍に定着、1986年は開幕投手となり、オールスター戦にファン投票1位で選出された。1988年右ヒジを痛め米国で手術を受ける。リハビリを続け、1992年再起をかけイースタンリーグに登板。同年9月4年ぶりに1軍で登板。1996年横浜に移籍。同年シーズン終了後、引退。

1997年1月テレビ朝日野球解説者を務めた。1999年米国・大リーグのインディアンスの2Aアクロン・エアロスでコーチ修業する。2004年西武一軍コーチに就任。2007年成績不振により退任。2008年ヤクルト一軍投手コーチ就任。2013年、退任。

通算成績は180試合、39勝49敗2S、防御率4.80、755回1/3、359奪三振。日本フェアプレー賞、早稲田実業高卒、右投右打、179cm、85kg

1年夏から甲子園5季連続を果たし、空前の大ちゃんフィーバー

荒木大輔は東京都調布市で生まれ、二人の兄と同じく、リトルリーグ「調布リトル」に入り幼い頃から野球を始めます。小学6年生時、エースとして世界大会に出場すると、準決勝でノーヒット・ノーランを達成し、そのまま優勝を飾りました。中学生時代も調布シニアで活躍し、2度の日本一を達成します。その後、早稲田実業へ進学すると、空前のフィーバーを巻き起こしました。1年夏の甲子園予選、控え選手ながらベンチ入りすると、エースの故障もあって準決勝、決勝でマウンドに上がり、甲子園出場の立役者となります。

さらに初の甲子園でも、準決勝戦までの全5試合に先発登板し、4完封、44回1/3連続無失点という記録まで樹立しました。決勝では、愛甲猛率いる横浜高校に敗れたものの、端正なルックスもあって荒木人気は社会現象に発展します。大輔という名前は新生児人気名前ランキング1位となり、同年生まれ、後に平成の怪物として知られた松坂大輔も、荒木大輔からとられています。

そして在学中は、すべての甲子園出場チャンスを生かし5季連続出場を果たします。成績的には、1年夏の準優勝が最高位でしたが、そのほかにも、明治神宮大会2度、国体3度とすべての全国大会に出場しました。

ドラフト1位でヤクルト入団も、プロの厚い壁に遮られる

1982年、ドラフト会議ではヤクルトスワローズと読売ジャイアンツが1位指名で競合し、抽選の結果ヤクルトが交渉権を獲得します。意中球団は巨人だったため、入団交渉は長引きましたが、説得の末ヤクルト入団が決まりました。高校時代をさらに上回る人気となり、球団は「荒木トンネル」と言われる、神宮球場とクラブハウスを結ぶ専用地下道を作ったほどです。

高卒ルーキーながら開幕一軍入りし、1983年5月には初先発、初勝利を飾るという順調なスタートを切りました。しかし、プロの世界はそれほど甘いものではなく、同年はその1勝のみで防御率は5.97と不本意な成績に終わります。2年目も22試合に登板しましたが、0勝5敗、防御率7.18と惨憺たる数字を残し、3年目にはついに開幕二軍スタートとなりました。

2年連続開幕投手を任され、エースとして初の二桁勝利達成

荒木大輔は、少年時代からとんとん拍子できた野球人生において、初めて挫折を味わいます。それでも二軍で練習を積むと、後半戦には一軍復帰し、先発ローテーション投手の一角としてプレーしました。そして初完投、初完封も巨人戦で達成するなど、後半だけで6勝をマークして一躍エース格へと成長します。

1986年には開幕投手を任され、エースとして先発にリリーフにフル回転します。初めて規定投球回数に到達し、オールスターにも出場しましたが、成績は8勝13敗と大きく負け越しました。打線の援護も少なく、同年のヤクルト順位は2年連続最下位、そして6年連続Bクラスというかなりの低迷期にあったことも影響しました。

1987年、新監督・関根潤三は、荒木を2年連続で開幕投手に指名します。同年は、緊急来日したボブ・ホーナー、池山隆寛&広澤克実の急成長もあって打線が強化され、エースの面目躍如たる初の二桁10勝をマークしました。

2度のトミー・ジョン手術に、長いリハビリの時期を過ごす

1988年、開幕から1ヶ月強で3勝と絶好のスタートを切りました。しかし、突如右肘痛に襲われ戦線離脱します。しかし、当時日本のスポーツ医学は遅れを取っており、疲労と診断されたのみでした。そこで、3年前に奇跡の復活を遂げていた村田兆治を執刀したフランク・ジョーブ博士を訪ねます。診断の結果は、右肘側副靱帯の断裂であり、即トミー・ジョン手術を依頼しました。

あとは根気よくリハビリで復活を期す、はずでしたが、リハビリ担当コーチの不在もあって荒木大輔は失敗してしまいます。ついついリハビリメニューを増やしたところ、左手首から移植した腱も切れるという事態に陥りました。1989年9月に、右手首の腱を移植する再手術を受けましたが、当然復帰は大幅に遅れます。さらに1991年には椎間板ヘルニアの手術と試練は続きました。

ヤクルト14年ぶり優勝の起爆剤となった奇跡の復活劇

同じ失敗を二度繰り返すわけにはいかず、じっくりとリハビリに務めました。そして、荒木大輔が不在だった間に、チームは大変貌を遂げます。1990年に、野村克也が監督に就任し、あわせて名捕手・古田敦也も入団しました。そしてデータを駆使したID野球を武器に5位、3位と順位を上げ、1992年には本気で優勝を狙えるチームとなっていました。

一軍が快調に首位キープしていた頃、球数制限のある中ファームで投球を再開します。そしてシーズン終盤、優勝争い経験の少ないヤクルトが3位に落ち、がけっぷちの時に荒木が1,541日ぶりに一軍マウンドに帰ってきました。1点ビハインドの場面に登場し、わずか6球でしたが三振を奪うと神宮球場は興奮の坩堝と化します。その試合を古田の逆転本塁打で勝利すると、10月には先発としてマウンドに上がり7回無失点で1611日ぶりの勝利。荒木の復活によってチームは完全に勢いを取り戻し、一気に14年ぶりの優勝を成し遂げました。そして優勝決定ゲームの先発としてマウンドにあがり、勝利投手となったのも荒木でした。

1993年も、先発としてマウンドに上がり8勝4敗、防御率3.92とチームの戦力となります。常勝軍団となったヤクルトはリーグ連覇を飾り、前年敗れた西武ライオンズとの日本シリーズへ挑みました。荒木は大事な第1戦の先発という大役を任されると、6回自責点2点と試合を作り先勝します。その後登板はありませんでしたが、ヤクルトは4勝3敗で勝利し、自身初の日本一を達成しました。

通算39勝で現役引退し、その後は西武、ヤクルトでコーチ歴任

1994年は先発ローテーション投手からはずれ1勝に終わり、翌年は一度も登板することなく戦力外通告を受けました。1996年、無償トレードで横浜に移籍するも0勝に終わり、現役引退を表明します。甲子園でフィーバーを起こし、24歳で選手生命を脅かす怪我に見舞われましたが、復帰後の11勝含めて39勝をマークしてユニフォームを脱ぎました。

引退後は解説者生活を経て、メジャーリーグでのコーチ留学を経験します。そして2004年から西武ライオンズの投手コーチに就任し、奇しくも松坂大輔らを指導する立場となりました。2007年に退任すると、翌年からは古巣ヤクルトのコーチを6年間務めました。


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