名前岩村明憲(イワムラアキノリ)
生年月日1979年2月9日
日本
出身愛媛県
プロフィール宇和島東高の遊撃手として活躍し、左打ちの長打力と走塁で注目を集める。高校全日本代表4番打者の実績を買われ、1996年ヤクルトからドラフト2位の指名を受ける。同年近鉄から7位指名された兄・敬士とともにプロ入りし、話題となった。

4年目の2000年、三塁手レギュラーに定着し初のゴールデングラブ賞を受賞。2002年には初のベストナイン、2004年は球団タイ記録の44本塁打を放ちリーグを代表する打者に成長。同年から3年連続打率3割30本塁打も達成。

2006年オフ、ポスティングシステムを行使してメジャー移籍。タンパベイ・デビルレイズと3年契約を締結。2年目は、レイズのリーダ落として172安打を放ち、球団創設初優勝に貢献。快進撃でワールドシリーズ進出も優勝はならず。2009年第2回WBCでも日本代表として日本の連覇に貢献。しかし同シーズンの二塁手守備時に大怪我を負い戦線離脱。

以後、メジャー2チームを渡り歩くも、成績不振で2010年オフに解雇。2011年から日本球界に復帰し、楽天と契約。しかし2年間で戦力になれず、2013年古巣ヤクルトに復帰するも衰えを隠せず2014年再び戦力外通告。2015年からは独立リーグ福島ホープスの選手兼任監督として2年間在籍し、2017年4月現役引退。

NPB時代の通算成績は1,194試合、4,038打数1,172安打、193本塁打、615打点、67盗塁、打率.290。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回。

MLB時代の通算成績は408試合、1,545打数413安打、16本塁打、117打点、32盗塁、打率.267。宇和島東高卒、右投左打、176センチ、80キロ。

甲子園出場経験はないものの、全日本高校選抜の4番に抜擢

岩村明憲は、愛媛県に生まれ、父と3歳年上の兄・敬士とともにソフトボールを始めます。掛布雅之に憧れて同じ左打ちに転向し、練習を重ねていくうちに同氏ように小柄ながらも遠くへ飛ばすバッティングが身についていきました。野球の強豪・宇和島東高校へ進学すると、その才能はさらに開花し、強打の内野手として成長します。

3年春まで一度も甲子園出場経験がないにもかかわらず、全日本高校選抜の4番としてアジア選手権に出場します。そしてベーブ・ルース以来という場外本塁打を放ち、さらに名を馳せました。3年最後の夏、甲子園をかけた県予選では1番打者として、初回の初打席で敬遠されるという伝説も作りました。その後、準決勝まで進みましたが、松山商業に敗れ、甲子園の土を踏むことなく高校生活を終えました。

ヤクルト入団4年目には、池山隆寛から三塁手レギュラーを奪う

1996年ドラフト会議において、ヤクルトスワローズから2位指名を受けて入団が決まります。兄・敬士も近鉄バファローズから7位指名を受けたため、兄弟同時にプロ野球選手となりました。ルーキーイヤーからの2年間、一軍出場は2年目の1試合3打席だけに終わり、ほとんどをファームで過ごします。

そして3年目の1999年、衰えの見え始めた池山隆寛と併用で三塁手として起用されます。同年は86試合に出場して、規定打席未到達ながら打率.294、11本塁打、35打点、7盗塁とすべての数字で池山を上回りました。そして2000年、開幕スタメンこそ逃しましたが、完全に三塁手レギュラーとして定着し、130試合に出場します。打率は.278に終わりましたが、ともにチームでは主砲ぺタジーニに次ぐ18本塁打、66打点と長打力を見せ付けました。安定した守備力にも定評があり、初のゴールデングラブ賞を受賞します。オフには池山から背番号1を譲り受け、チームの大きな期待を背負いました。

ミスタースワローズとして3年連続打率3割、30本塁打を達成

ミスタースワローズの象徴とも言うべき背番号を背負うと、岩村明憲はそれに見合う実力を示してきます。2001年は6番打者に定着し、前年同様の好成績でチームのリーグ優勝、日本一に貢献しました。さらに2002年は、初のフル出場を達成して打率.320にベストナインとリーグを代表する打者に成長します。

2003年は開幕戦の故障が尾を引き60試合出場と、初めての挫折を経験しました。しかし、2004年は、ホームランバッターとして大きく覚醒します。2年ぶりのフル出場を達成し、打率.300、球団タイ記録の44本塁打、103打点と大爆発しました。本塁打は1本差、打点は10打点差でタイトルを逃しましたが、3番打者としてヤクルトの中軸として働きます。同年の日米野球でも、一人気を吐いて打率.440、7盗塁と非凡な実力を披露しました。さらにここから3年連続の打率3割、30本塁打、ゴールデングラブ賞とハイレベルで安定します。2006年の第1回WBCでも、日本の優勝に大きく貢献しました。

メジャー挑戦2年目には、チームをワールドシリーズへ導く大活躍

ヤクルトスワローズはポスティングシステムを利用してのメジャー挑戦が認められており、岩村明憲も2006年オフに行使します。そしてタンパベイ・デビルレイズ(現在のタンパベイ・レイズ)が落札し、3年契約を交わして海を渡りました。1年目から1番二塁手レギュラーを奪い123試合に出場しましたが、1998年創設の若い球団は、定位置の最下位に終わります。

しかし2008年、タンパベイ・レイズに改称されると、一気に球団創設初優勝を飾ります。岩村は早くもチームに慣れて、152試合出場で172安打と主力として活躍しました。中盤、チーム状態が悪いときには、年齢的にも上の岩村がチームリーダー的な役割をこなし、再び上昇気流に乗せます。勢いに乗ったチームは、プレーオフでも好調を維持し、ついにワールドシリーズ進出も果たしました。最後の最後で敗れはしたものの、万年お荷物球団といわれた躍進の裏には、日本人メジャーリーガーの存在がありました。

第2回WBCで連覇に貢献するも、シーズン中に大怪我を負う

メジャー3年目の2009年、まずはシーズン前に第2回WBCで主力として戦います。日本代表でもレギュラー内野手となり、全9試合に出場して打率.286、出塁率.417、1盗塁、7得点の成績を残しました。イチローとともに最多得点を記録し、決勝の勝ち越し点を呼びこむチャンスを広げたのも岩村明憲のバットでした。

連覇に貢献してメジャーでもさらに期待がかかるシーズンがスタートしましたが、5月に大怪我で戦線離脱します。二塁守備時に激しいスライディングを受けて、足首の靭帯が3本切れてしまいました。全治1年の重傷でしたが、同年中に復帰を果たします。しかし、この怪我は野球人として命取りとなりました。その後、ピッツバーグ・パイレーツ、オークランド・アスレチックスと移籍を繰り返しましたが、かつてのプレーを見せられず2010年オフ、メジャーでの挑戦は終わりを告げました。

晩年は日本球界2チーム、独立リーグ選手兼任監督を経て現役引退

メジャーでの挑戦を終えた時点で、まだ31歳だった岩村明憲は日本球界復帰を決断します。そして最初に声をかけてくれた東北楽天ゴールデンイーグルスと契約を交わしました。ともにメジャー帰りの松井稼頭央と大いに期待されましたが、大不振に陥ります。2年間でほとんど戦力になれないまま戦力外通告を受けます。すると、古巣ヤクルトからのオファーを受けて、2006年シーズン以来の復帰を果たしました。1年目こそ75試合に出場し意地を見せましたが、かつての長打力は全く影を潜め、2014年も活躍できないまま、3度目の戦力外通告を受けます。

それでも野球熱の冷めない岩村は、独立リーグを選択してでも現役にこだわりました。また経験を生かして、福島ホープスの選手兼任監督に就任します。プロを目指す若手たちの活躍の場ということもあって、自身の出場は控えました。すると後期は新規参入1年目にも関わらず地区半期優勝を飾ります。2016年からは、球団代表という肩書きも加わり、三足のわらじを履きます。2年目もリーグでは年間勝率2位で地区チャンピオンシップ出場を決めましたが、目標の位置ににチームを押し上げることができず、2017年4月、ついに現役引退を表明しました。


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