名前岩瀬仁紀(イワセヒトキ)
生年月日1974年7月10日
日本
出身愛知県西尾市
プロフィール小学2年から野球を始める。

西尾東高では投手を務め、3年夏の愛知大会の三好高戦で、無安打無得点試合を達成。愛知大学に進学後、1989年から外野手でレギュラーになり、1991年秋から投手兼任で8勝を挙げた。愛知大学リーグで通算124安打を記録。NTT東海に入社後投手に専念し、左腕からの140キロ台の速球と切れのいいスライダーで活躍。

1999年ドラフト2位で中日に入団。リーグ最多65試合に登板し優勝に貢献。同年11月ルーキーとしては史上2番目、2900万円アップの4200万円で契約更改。その後も、セットアッパーとして毎年50試合以上に登板。

2004年からはクローザーに転身し、2005年には日本新記録の46セーブをあげるなど2年連続で最多セーブ投手のタイトルを奪取。その後も安定したピッチングを続け、15年連続50試合登板、9年連続30セーブ。最多セーブ投手のタイトルも5度受賞。

2014年、左肘痛を発症して2015年シーズンを棒に振る。2016年一軍復帰を果たすと、2017年は3年ぶりのセーブ、そして12年ぶりの月間MVPを獲得。

通算成績は904試合、54勝45敗402S、38ホールド、防御率2.13、914回1/3、785奪三振(2016年まで)。最優秀中継ぎ投手3回、最多セーブ投手5回。西尾東高卒、愛知大学、180センチ、74キロ。左投左打

大学時代で打者を諦め、社会人時代に伝家の宝刀スライダーを修得

岩瀬仁紀は、愛知県西尾市で生まれ、小学2年生から野球を始めます。愛知衣浦のリトルリーグから、歴史が浅い西尾東高校へ進学した頃には、地域で評判の左腕投手として知られていました。投打の中心となった岩瀬は、3年夏の県大会予選2回戦でノーヒット・ノーランを達成します。しかし県立校が愛知県を勝ち抜くのは並大抵ではなく、3回戦敗退に終わります。

卒業後に愛知大学に進学すると、まず打者として外野手レギュラーとなりました。リーグ戦でも安打を量産し、2年には日米大学野球の日本代表、3年秋の中南米遠征メンバーにも選出されます。ここで同世代の左打者である高橋由伸(当時慶大大学)、稲葉篤紀(法政大学)らと出会い大きな刺激を受けました。3年からは投手兼任となり4年時には高校野球ばりに4番エースとなります。大学通算で愛知大学リーグ歴代2位の124安打、打率.323、投手としても8勝4敗と数字を残しましたが、同世代の天才打者たちと比較すると限界を感じ、投手一本に路線変更しました。

その後、同じく地元のNTT東海へ進むと、アマ球界の大投手・森昌彦に出会います。そして、後に自身の大きな武器となった高速スライダーを伝授されました。

不動のセットアッパーとして、入団から5年連続50試合登板

1998年ドラフト会議で、中日ドラゴンズを逆指名し2位で入団します。そして1999年、広島東洋カープとの開幕戦から、早くもプロ初登板の機会が与えられました。開幕投手・川上憲伸降板後の2番手として登板し、前田智徳、江藤智、金本知憲という広島強力クリーンナップ3人に3連打を浴びせられます。なんと1死も取れずにマウンドを降りるという屈辱を味わいました。

中日は同試合も勝利し、11連勝と開幕ダッシュに成功します。岩瀬もその後セットアッパーとして定着し、65試合、10勝2敗1セーブ、防御率1.57という脅威の成績でチームのリーグ優勝に貢献しました。同期のドラフト1位入団だった福留孝介をしのぐ活躍で、通常の年ならば間違いなく新人王受賞する成績です。しかし同年は、上原浩治(巨人)が投手タイトルを独占する活躍を見せたため、岩瀬は次点でした。

翌年シーズン終盤に1試合だけ先発登板しましたが、それ以外はまさに不動のセットアッパーとして定着します。入団5年連続で50試合以上に登板し、2001年以外の4年間はすべて防御率1点台という現代野球では考えられない働き振りを見せました。

クローザーとしても安定感は変わらず、セーブ日本新記録を樹立

2004年、中日監督に落合博満が就任すると、岩瀬仁紀をセットアッパーからクローザーへコンバートしました。開幕直前に怪我を負ったことで前半戦は不調でしたが、後半はしっかり持ち直します。同年は2勝3敗22セーブで、5年ぶりのリーグ優勝に貢献し、8月のアテネ五輪でも日本代表として、5試合に登板して無失点と安定感は抜群でした。

2005年、クローザーとしてさらに一段ギアをあげました。打者にわかっていても打たれないスライダーを武器に、次々とセーブを重ねていきます。リーグ連覇は逃しましたが、1勝2敗46セーブ、防御率1.88とまさに守護神として君臨しました。佐々木主浩の持つセーブ日本記録を塗り替える最多セーブ投手となり、同年は被本塁打0本でした。

継投で完全試合を達成し、53年ぶり日本一の胴上げ投手となる

岩瀬仁紀がクローザーに定着した2004年以降、中日は1位、2位、1位と黄金時代に突入し、2007年はシーズン2位から日本シリーズ進出を果たします。同年も3年連続40セーブを達成と磐石でしたが、日本シリーズでは日本中の注目を浴びました。チームは日本ハム相手に3勝1敗と王手をかけ、第5戦も先発・山井大介が初回から素晴らしいピッチングを続けます。

8回まで一人のランナーも許さず、シリーズ史上初の完全試合達成が期待されました。しかし、山井は途中で右手のマメをつぶして流血しており、1-0と緊迫した試合内容だったこともあって、落合監督は9回のマウンドに岩瀬を指名します。そんな事実を知らないファンが騒然とする中、まさに淡々と13球で日本ハム打者3人を料理し、継投での完全試合が達成されました。尋常でない精神力で胴上げ投手となり、チームとして53年ぶりの日本一を実現させました。

怪我知らずの鉄人は9年連続30セーブと、中日黄金時代を牽引

その後も、怪我などで離脱することなく、入団以来15年連続50試合登板という偉業を成し遂げます。防御率も常に安定しており、9年連続30セーブを達成し、最多セーブ投手のタイトルも5度受賞しました。絶対的なクローザーが君臨するチームは、2010年から中日球団史上初のリーグ連覇も達成します。そして、6度の日本シリーズを経験していますが、2016年末現在で一度も失点をしていません。

通算400セーブも達成し、歴代1位の登板数達成も間近に迫る

2014年、史上初の通算400セーブを達成しましたが、入団以来初の故障となる左肘痛で15年連続50試合登板、9年連続30セーブの大記録が途絶えます。2015年には、自身初の一軍登板なしに終わりました。2016年、一軍に復帰して8月には史上3人目の通算900試合登板を達成しましたが、防御率6.10とかつての岩瀬からすると考えられない数字を残します。

2017年も契約更新されましたが、すでに42歳の球界最年長投手だけに、復活は難しいと思われました。しかし開幕から左のセットアッパーとして定着し、6月には3年ぶりのセーブを記録するなど、1勝1セーブ10ホールド、防御率0.00の成績で、12年ぶりの月間MVPに輝きます。再起をかける2017年、かつて「死に神の鎌」と恐れられた真横に滑るスライダーに加え、新球シュートを増やしていました。そして、日本プロ野球に燦然と輝いている通算949試合(米田哲也)登板の更新、そしてその先にある前人未到の1,000試合登板に向けて腕を振っています。


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