名前青木功(アオキイサオ)
生年月日1942年8月31日
日本
出身千葉県我孫子市
プロフィール中学卒業後都民ゴルフ場に就職、そこでヘッドプロをしていた林由郎プロのバッグかつぎからスタート。

プロテスト2度目で合格、1971年の初勝利(関東プロ)までまる6年を必要とした。1974年からはマスターズ連続参加で、耐えることを学ぶ。1978年世界マッチプレーを制して「世界のAOKI」となった。1980年全米オープンゴルフ2位。1983年2月には、劇的イーグルでハワイアン・オープン初優勝、同年9月ヨーロッパ・オープンに優勝、1989年にはオーストラリアツアーのコカコーラクラシックに優勝し、4大ツアーを制した。

1992年日本人で初めて米国シニアツアー優勝。1994年11月日本シニアオープンゴルフで国内シニア戦にデビューし初優勝。1995年7月全米シニアオープン3位、8月米国シニアツアー優勝。1996年4月全米プロシニア選手権2位。同年7月米国シニア・クローガー・クラシックで優勝。1997年9月米国シニア・エメラルドコースト・クラシック優勝。同年日本シニアオープン4連覇。1998年には4年連続で年間獲得賞金が100万ドルを突破。

2000年7月米国シニア・ステートファーム・クラシック2位。2001年全米シニアオープン2位。同年7月1000試合出場を達成。

日本オープン2勝を含め、国内通算51勝、海外12勝(内シニアツアー13勝)。我孫子中卒。180センチ、78キロ。アメリカン・エクスプレス所属

挫折の中ゴルフと出会い、苦節の末22歳でプロテスト合格

青木功は、1942年、千葉県我孫子市に4兄弟の末っ子として生を受けます。幼い頃からプロ野球選手を夢に持ち、中学時代は野球部に入りました。現在で言うクローザーを務めていましたが、中学最後の試合で自身が打たれてサヨナラ負けし野球から離れます。その後すぐにゴルフと出会うとのめり込み、中学卒業後に東京都民ゴルフ場に就職しました。

キャディとして働く傍ら、プロゴルファー林由郎の門下生となりゴルフの腕を磨きます。その後、師匠の勧めで我孫子ゴルフ倶楽部へ移籍し、20歳のときに初めてプロテストにチャレンジしました。しかしわずか1打差で涙を呑み、さらに2年後に2回目にして合格することができました。

デビューから予選落ちが続き、7年目29歳にして初優勝を飾る

1964年、22歳でプロゴルファーとなりましたが、1勝目を上げるまでに多くの歳月を費やします。練習不足から予選落ちが続き大きく自信を失いました。一時は引退すら考えましたが、プロボクサーの厳しいトレーニングを目の当たりにすると、そこから青木功は生まれ変わります。徹底的な肉体改造に取り組み強靭な身体を手に入れると、プロ転向7年目ついに初優勝の日が訪れました。

1971年、関東プロゴルフ選手権で待望の初勝利をあげると、1973年には持ち球をフェードからフックに変えたことが功を奏し、ツアー5勝をマークします。1976年には初の賞金王を飾り、1978年からは4年連続賞金王に輝くなど、日本のトッププロとしての地位を固めました。

AONと呼ばれた同世代のライバルたちと、日本のゴルフ界をリード

青木功がプロ初優勝を飾った1971年、後に強力なライバルとなった尾崎将司もプロ1勝をあげます。4歳年下の尾崎は甲子園で優勝し、プロ野球の世界を3年経て、1970年にプロテストに合格していました。1973年にはマスターズ・トーナメントでも8位入賞し、翌年には日本オープンゴルフ選手権にも勝利と、一気に日本の第一人者となります。また、1975年にプロ入りした若い中嶋常幸も台頭すると、AON(青木、尾崎、中島)と呼ばれプロゴルフ界の人気が高まります。その後長きに渡って、日本ゴルフ界をリードし、ツアー歴代勝利数も尾崎94勝、青木51勝、中島48勝と、1位から3位で並んでいます(2016年末時点)。

帝王を脅かした全米オープン2位で、世界のAOKIの実力を証明

1974年以降の青木功は、海外ツアーに積極的に参加していきます。しかし、同年のマスターズ初出場も予選落ちの屈辱を味わうなど、なかなか結果を残せませんでした。それでも海外ツアーには消極的な尾崎に対抗するかのように、挑戦を続けます。そして1978年、英国開催のヨーロピアンツアー「世界マッチプレー選手権」で海外ツアー初優勝を飾りました。翌年の同大会でも準優勝と波に乗ると、次なる目標をアメリカPGAツアー優勝に絞ります。

そして1980年、ゴルフ史に残る「全米オープン」での帝王ジャック・ニクラウスとの死闘が繰り広げられます。絶好調の首位ニクラウスに対し、3日を終えた時点でついに並びました。最終日はまるでマッチプレーのような二人だけの戦いとなりましたが、惜しくも2位で敗れます。それでも、この記録は2016年現在でも日本人メジャー最高位であり、青木は「世界のAOKI」として名を馳せました。

日本人初の米国PGAツアー優勝含めて、世界4大ツアー制覇

その後も海外で驚きの成績をあげていきました。1983年の「ハワイアン・オープン」では、日本人として初めてアメリカPGAツアー優勝を飾ります。しかも、最終日、最終ホールにおける逆転チップインイーグルという劇的な結末にファンは酔いしれました。同年9月には、ヨーロピアンツアー「ヨーロッパ・オープン」で優勝、1989年には豪州ツアー「コカコーラクラシック」でも優勝と、世界4大ツアー(日米欧豪)優勝を達成しました。

日米で殿堂入り後も、現役選手としてシニアツアー参戦中

50歳を迎えた1992年からはアメリカシニアツアーに、1994年からは日本シニアツアーに積極的に参戦しています。独特なパッティングも健在で、日本人初のアメリカシニアツアー優勝も飾っており、日本シニアオープンゴルフ選手権では4連覇を達成しました(1994~1997年)。

また一方でジュニア育成やチャリティゴルフなど、プロゴルファーの地位向上やゴルフの振興などに尽力し、日本人2人目の世界ゴルフ殿堂入り、またプロゴルファーとしては史上初の紫綬褒章を受章しています。その後、日本でもプロゴルフ殿堂入りし、男子プロゴルファーとしては3人目の叙勲となる旭日小綬章も授与しました。

高年齢となっても現役選手として活躍しており、65歳で出場した2007年の日本シニアオープンゴルフ選手権では、最終ラウンドで65のエージシュートを達成して優勝しました。その後も、エージシュートを達成してゴルフファンを喜ばせ、2016年には途中棄権とはなりましたが、73歳241日という史上最年長でのツアー参加記録を作っています。


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