名前岩本輝雄(イワモトテルオ)
生年月日1972年5月2日
日本
出身神奈川県横浜市金沢区
プロフィール1991年フジタ(現・ベルマーレ平塚)に入団、DFを務め、1993年天皇杯に出場。

1994年Jリーグに昇格。サイドバックの一角として1994年2ndステージ2位躍進に貢献し、天皇杯でも優勝。同年キリンカップ日本代表。1994年からMFに転向。

1995年ブラジルへ短期留学するも怪我を負う。1998年京都パープルサンガ、1999年川崎フロンターレを経て、ベガルタ仙台に移籍。2001年、左サイドバックに定着して、J1昇格の原動力となる。J1でも2年間プレーし、2004年、名古屋グランパスエイトに移籍。しかし足首靭帯断裂を負い2年間プレーから離れる。

2006年10月、オークランド・シティFCと7週間の短期契約を締結し、12月のクラブワールドカップに出場。同試合が現役生活最後の舞台となり現役引退。

J1通算239試合出場、41得点。国際Aマッチ9試合出場2得点。横浜商大附属高卒、180センチ、74キロ

フジタサッカークラブの戦力となり、Jリーグ昇格に貢献

岩本輝雄は、神奈川県横浜市に生まれると、小学生時代から瀬ヶ崎S.C.でサッカーを始めます。六浦中学校、横浜商科大学高等学校を経て、1991年にフジタサッカークラブへ入団しました。古くは、セルジオ越後を獲得して攻撃的サッカーを目指し、読売サッカークラブとともに、プロチームへの意識が強いクラブです。

1991年はJSL2部として最後の年度にあたり、ルーキー岩本も22試合に出場します。7得点を決めるなどチームに貢献し、見事優勝を果たしました。そして第1回ジャパンフットボールリーグ(JFL)1部への昇格を決めます。さらに1993年にはJFL1部でも優勝を飾り、Jリーグ昇格を決めました。チームの中心は、元ブラジル代表の外国人選手たちでしたが、岩本や名良橋晃の超攻撃的サイドバックもチーム躍進の鍵となっていました。

ベルマーレ旋風の原動力となり、日本代表にも選出される

1994年、チームはベルマーレ平塚として、Jリーグに参戦します。左サイドバックの岩本輝雄は、どちらかといえば攻撃重視のDFであり、守備を苦手としていました。前半のサントリーシリーズでは、その盲点をつかれ12チーム中ワーストの54失点を喫します。そのため、7勝15敗と大きく負け越し、順位も11位に終わりました。

しかし、試合を経験するにつれてチーム力は安定し、後半のニコスシリーズは一転して台風の目となります。ストライカー・ベッチーニョを筆頭に得点を量産し、さらに守備陣も安定感を取り戻しました。48得点、26失点は優勝したヴェルディ川崎と全く同じとなりましたが、1勝差の2位に終わります。それでも、岩本、名良橋らサイドバックを起点としたダイレクトプレーで相手守備陣を切り裂く攻撃は、「ベルマーレ旋風」と恐れられました。同年は天皇杯では自身も3得点するなど次々と勝利し、ベルマーレ平塚としての初優勝も飾りました。またこうした活躍は日本代表ファルカン監督の目にも留まり、MFとして選出されます。背番号10を与えられるなど大きく期待されていました。

ブラジル留学後は怪我の影響が長引き、国内3チームを渡り歩く

さらなる進化を求めた岩本輝雄は、1995年にブラジルに短期留学します。しかし、ここで怪我をしたことが、その後のサッカー人生を大きく左右することになりました。右足甲を痛めて、日本代表からも外れると、ベルマーレでのリーグ戦でも左膝靭帯損傷と怪我が相次ぎます。複数の手術を余儀なくされたため、アジアカップウィナーズカップ初制覇には全く貢献できませんでした。

不本意なシーズンが続き、1997年限りでベルマーレ平塚を退団し、京都パープルサンガへ移籍します。元日本代表監督のハンス・オフトが京都監督に就任し、岩本も33試合に出場しました。8得点と意地を見せましたがチームは低迷し、同年オフに川崎フロンターレへ移籍します。いきなり主将に抜擢されましたが、怪我がちで出場機会は12試合に留まり、またしても1年でヴェルディ川崎へ移籍しました。しかし、ヴェルディではわずか9試合出場で、自身初のシーズン無得点に終わり、ついには自主退団してしまいました。

ベガルタ仙台で完全復活し、チームのJ1昇格に大きく貢献

2001年、半年間の充電期間を経て、当時J2だったベガルタ仙台へ入団します。前々年9位、前年5位と徐々にチーム順位を上げており、東北初のJリーグ昇格を目指して戦うチームにおいて輝きを取り戻しました。岩本輝雄は、左サイドの攻撃の起点としてリーグ戦34試合に出場します。精度の高いボールをフォワードに供給し、次々とアシストを決めていきました。3位で迎えた最終節でも見事なアシストを決めて、首位の京都パープルサンガを破り、J2で2位を確保して初のJ1昇格を果たします。まさにここ一番のゲームで、岩本の左足が冴え渡りました。

岩本はJ1昇格したチームでも主力として戦います。当初は開幕5連勝をかざるなど前年からの勢いを持続させましたが、年間順位は16チーム中の13位に終わりました。しかし地力に劣るベガルタは、2003年、1st、2ndともに15位に終わり再びJ2降格となります。それでも岩本が10月に決めた40mフリーキックは、Jリーグベストゴールアワードにノミネートされるほどのスーパーゴールでした。

名古屋へ移籍するも、大怪我でピッチに立てない状態が続く

2004年からは名古屋グランパスエイトと契約し、J1での戦いを続けます。しかし、5月に選手生命を脅かす大怪我を負ってしまいます。ゲーム中にジャンプ後の着地に失敗し、右足首を故障します。当初の診断結果は軽症だったため、その後練習を再開しましたが、実際の症状は足首靭帯断裂でした。靭帯が切れていた状態でプレーを続けたことでさらに症状を悪化させます。その後2度にわたる手術を敢行し、歩ける状態にまで回復したものの選手として復帰するにはかなり難しい状態でした。

FIFAクラブワールドカップ出場を最後の舞台にして現役引退

約2年間、プロサッカー選手から離れ、一時はタレント活動もしました。それでもサッカーへの情熱を失うことなく、海外の医師にも助けの手を伸ばしました。そして長い年月が怪我の回復を助け、練習に参加できるようになります。そして2006年、Jリーグクラブや海外など移籍先を探しているところに、思わぬオファーが飛び込んできました。

それは同年12月に、FIFAクラブワールドカップ出場を控えたオークランド・シティFCでした。ニュージーランドのアマチュアクラブのためほぼ無報酬でしたが、プレーしたいという欲求には勝てず、クラブワールドカップ出場までという短期契約を締結します。そして2試合の途中出場でしたが、再びピッチに立ち、その舞台を最後に現役生活に別れを告げました。


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