宮内洋について

名前宮内洋
生年月日1973年2月4日
日本
出身山口県防府市
プロフィール桑山中時代は4番で捕手。宇部商に入り、88年夏の甲子園対東海大甲府戦で、9回表に代打逆転3ランを放つ。代打アーチは史上5人目だが、バックススクリーンに打ち込んだのも、1年生の記録としては甲子園球史上初めて。

91年住友金属に入社。同年都市対抗野球で若獅子賞(新人賞)を獲得。同年住友金属を退社し、横浜の入団テストに合格、98年ドラフト5位で入団。12年一軍に初出場し、7月の対阪神戦で初安打を放つ。

180センチ、83キロ。右投左打。

山口県内でも評判の中学生。名門校へ進学

出身は山口県防府市、中国地方でも野球処として知られるところでした。幼少期より体が大きかった宮内は野球を始めると才能を開花させ、メキメキと伸びる身長のごとく成長していきました。桑山中学校に在学中は4番打者を打ち、捕手としてもチームを支えるようになります。

キャプテンシーに優れた宮内には高校野球関係者からのスカウトが連日のように押し寄せました。県外の高校や甲子園名門校などが数多くスカウトにやってくる中で宮内が選んだのは地元である山口県の宇部商業でした。山口県の高校野球界では最強とさえ称された名門校です。

宇部商業と言えば、語り継がれているのが85年夏の甲子園大会、この年のスラッガー、藤井進が大会記録となる1大会4本塁打を放ったことでも知られています。この大会中にPL学園の清原和博が新記録となる5本塁打を放ったことであっさりと更新されましたが、山口県内では今もなお伝説の記録です。この記録更新を期待されて、宮内は入学したといっても過言ではありませんでした。

史上初となる、1年生の代打アーチ

大いなる期待を背負って宇部商業に入学した宮内洋。甲子園に毎年のように出場し、PL学園、報徳学園らとともに「逆転の御三家」、「ミラクル宇部商」というキャッチフレーズからも知られるように劇的な試合を繰り返す学校でしたが、その原動力となる選手たちも名門校からの卒業生ばかりでした。エリート集団の集まりの中で1年生は基本的にベンチ入りすらままならないということが続きましたが、宮内はその中で1年生にしてベンチ入りを果たします。

ベンチ入りを果たすこと自体が素晴らしいことですが、宮内ですらベンチ入りしかできないというところが宇部商業の戦力の厚さを雄弁に物語っています。圧倒的な戦力を背景に宇部商業は県大会を勝ち進み、ライバルである岩国商業、桜ケ丘、徳山らを粉砕して88年夏の甲子園大会に出場しました。

この年の甲子園大会において、宇部商業の前評判は決して高いものではありませんでした。しかし、初戦の日大山形を8-0で下して勢いに乗ると、続く八幡商業戦も6-4で勝利を収めます。そして優勝候補の1校である東海大甲府との対戦となりました。

東海大甲府の魅力は豊富な投手陣でした。実際に宇部商業の打線も湿りっぱなしで、2試合で14得点を稼いだチームが9回までにわずか1得点のみと追い詰められました。しかし、その9回表にチームが巻き返して1死一三塁というチャンスを作ります。そしてこの場面で起用されたのが宮内でした。

他の打者を差し置いて当時1年生の宮内が登場したのは訳がありました。それは好調過ぎた打撃練習に起因します。もともと打撃練習時の打球の伸びが他の打者を大きく上回っていた宮内はいつしか「練習だけなら4番打者」という称号をチームからもらっていました。練習中の初球からでも打てるタイプの打者と見抜かれたことがこの起用につながりましたが、見事にその期待に応えます。宮内はこの打席でバックスクリーンに飛び込む逆転3ランを放ち、チームを勝利に導きました。ちなみに代打本塁打自体は甲子園大会史上5人目でしたが、1年生による代打アーチ、それもバックスクリーンへの豪快な一打は史上初の快挙となりました。

この一打がキッカケで宇部商業はこの年、ベスト8まで進出しています。

社会人野球の新人王獲得で念願のプロへ

宇部商業のベスト8入りに貢献した宮内洋。大会終了後の新チーム結成時には主力打者として起用されるようになりますが、89年の夏、宇部商業は県大会を勝ち進むことができずに予選敗退を喫します。宮内の豪快なバッティングは甲子園大会で見ることができませんでした。

高校ラストイヤーとなった90年、宮内は4番打者としてチームを引っ張り、見事に山口県大会を2年ぶりの優勝へと導きました。待ちに待った甲子園大会でも宮内は4番打者の座に君臨し、重要な局面では好打を連発します。この大会でもソロアーチをマークするなど、プロ顔負けの打撃を披露します。結果的にチームは3回戦までで敗れてしまいましたが、高校通算49本塁打を放った宮内の打撃はプロ注目のものとなりました。

しかし、90年のドラフト会議は高校生よりも大学、社会人投手に好素材が集まった年でした。そのため、高校生の指名辞退が少なく、高校卒で成功したと言えるのが97-98年に首位打者に輝いた鈴木尚典(横浜)くらいなものでした。そのため宮内はさらに打撃センスを伸ばすために社会人野球の住友金属へと進みます。

住友金属での宮内は1年目から活躍します。91年の都市対抗野球大会ではチームをベスト4に導く活躍を見せて、自身も新人王に当たる若獅子賞というタイトルを受賞します。この住友金属で7年間プレーし、宮内はチームの主力打者に成長しました。

プロでは開花せず、クラブチームのコーチに転身

住友金属に入社して7年の月日がたった97年、宮内洋は24歳になっていました。プロ入りの思いが強い選手ではありましたが、24歳のプロ入りは当時ではかなりの高齢の部類でした。この年のドラフト会議で指名球団が現れるかも微妙なところでもありました。

宮内の課題となっていたのは打撃よりも守備面でした。というのも、宮内は若獅子賞を獲得した年から指名打者としてプレーしていたように、打撃は一級品でも守備では疑問符が付く選手でもありました。それだけにプロ入りは微妙で、指名打者のあるパリーグのチームが獲得するかどうかという考えでした。

そんな中で迎えたドラフト会議、宮内はセリーグの横浜ベイスターズがドラフト5位で指名を受けました。念願のプロ入りを果たすことになります。横浜はこの頃から黄金期に突入し、98年には38年ぶりの日本一にも輝きました。

しかし、その中に宮内の姿はありませんでした。高校1年時同様、打撃練習や二軍の試合では活躍しますが、一軍に上がる日はなかなかやってこず、初めて宮内が一軍の試合に出場したのはプロ入り3年目の00年、それもわずか9試合の出場でした。そして翌01年も代打で7回打席に立っただけでシーズン終了を迎えてしまいました。この時点で28歳になっていた宮内は伸びしろがないと判断され、戦力外通告を受けることになりました。これであきらめがついたのか、宮内自身も現役を去りました。

現役引退後、宮内は球団スタッフに転身、スコアラーやスカウトを歴任したのち、現在は富山県にあるクラブチーム・ロキテクノベースボールクラブでコーチを務めています。


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