名前 | 尾崎直道(オザキナオミチ) |
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生年月日 | 1956年5月18日 |
国 | 日本 |
出身 | 徳島県海部郡宍喰町 |
プロフィール | プロゴルフの尾崎三兄弟の末弟。中学卒業と同時に兄の住む千葉県習志野へ。
日大一高に通いながら本格的なゴルフの練習を始め、プロテスト受験すること3度目の1976年合格し、プロゴルファーに。 1984年静岡オープンで初勝利。同年KKジョーを設立して独立。1988年日本シリーズ、1990年マッチプレーで各々優勝。1991年、年間4勝して初の賞金王。1994年アコムインターナショナル優勝。賞金ランク4位。 1997年米国ツアー98試合目のニッサン・オープンで9位に入り、米国ツアーでの通算獲得賞金が100万ドルを超える。同年7月ヨネックスオープン広島でツアー通算25勝目を挙げ、史上6人目の終身シード権を獲得。8月のビュイックオープンでは米国ツアー自己最高の2位タイをマーク。 1999年日本プロ選手権優勝。同年日本オープンで優勝、日本4大タイトルを制覇し、史上5人目のグランドスラムを達成。同年2度目の賞金王に輝く。2000年日本オープン連覇。 2006年からアメリカシニアツアー挑戦。2012年からは日本のシニアツアーでもプレーし同年、2勝を上げて賞金王。2014年も日本プロゴルフシニア選手権で優勝。174センチ、75キロと小柄だが、センスの良さは抜群。ツアー通算32勝(国内メジャー7勝)。千葉日大一高卒 |
偉大なる兄たちの背中を追い、史上初の三兄弟プロゴルファー誕生
尾崎直道は、1956年尾崎家三男として徳島県海部郡宍喰町に生まれます。兄たち同様、野球をしていましたが、実際にプロ入りした長男・将司、甲子園未経験ながらドラフト指名された次男・健夫には叶わないと悟り、15歳から二人の兄の背中を追ってゴルフを始めました。
千葉日本大学第一高校に通いながら、素振り中心の練習を始めます。卒業後は、習志野カントリークラブに通う研修生として腕を磨きました。そして、20歳の成人式までのプロ入りを目標に、来る日も来る日もボールを打ち続けます。1976年、最初のプロテストを受験するも実力不足で合格ラインには届きませんでした。同年2度目のテストを受験するもコース設定が難しすぎて一人も合格者が出ず、緊急でテストのやり直しが決まります。そしてそのチャンスを生かし、成人式前のプロテスト合格を実現しました。
遅咲きの8年目に初優勝も、年間3勝して賞金ランキング2位
1977年、ようやくプロゴルファーとしてスタートラインに立つと、長男・将司はすでに賞金王を何度もとっており、次男・健夫もツアーデビュー3年後の1979年に初優勝を飾っていました。当時は20代の若手は少なく、3兄弟の中でも体の小さい尾崎直道は、若武者と呼ばれます。当初はツアーに苦しみながらも、何とかシード選手になり、ようやく一人前のプロになってきた頃、契約先の企業がニックネームを募集しました。二人の兄が、ジャンボ、ジェットだったことから、同じJの頭文字をとってジョーと決まりました。
プロ転向8年目の1984年、開幕戦の「静岡オープン」にて念願の初優勝を成し遂げました。そして、プロゴルファーにとって難しいといわれる2勝目も、すぐに訪れます。初優勝から3ヵ月後の「札幌とうきゅうオープン」で優勝を飾ると、さらに2ヶ月半後の「KBCオーガスタ」でも優勝と、いきなり年間3勝で賞金ランキングも2位に浮上しました。
父の訃報という悲しみを胸に、大逆転で初の賞金王を実現
初優勝以降、毎年のように優勝を重ね、初優勝からの6年間で賞金ランキング2位が実に3回とトッププロとして大きく頭角を現しました。「日本シリーズ」(1988年)、「日本プロマッチプレー」(1990年)と国内メジャーも4つ中2つを制します。1991年も、「日経カップ」、「サントリーオープン」と2勝をマークし残り3試合時点で賞金ランキング4位につめていました。そして「カシオワールドオープン」では、3日目に首位にたってそのまま優勝し、初の賞金1億円超えを実現し、トップとの差750万近くのランキング2位に浮上します。残り2試合でしたが、過去2勝をしていた得意の日本シリーズを迎えました。
しかし、日本シリーズの前日、父の訃報が飛び込むというまさかの事態が起こります。息子として葬儀に参列しなければならない状況でしたが、涙を呑んで試合に出場するという選択をしました。通常の心理状態ではなかったにもかかわらず、2日目に首位タイに立つと3日目、最終日も首位で終わり見事な優勝を飾ります。最終戦は49位タイと大きく沈みながらも、2位に700万差をつけて初の賞金王の座を獲得しました。
アメリカ挑戦しつつ、国内でメジャー4冠、永久シード権獲得
賞金王タイトルは、尾崎直道に新たな扉を開けてくれました。アメリカツアー出場機会が増え、そこで残した結果によってアメリカPGAツアーに挑戦するチャンスが舞い込みます。37歳にして新たな挑戦をスタートし、日本ツアーとのかけもちするシーズンが続きました。長い移動やコミュニケーションの違いなど、普段経験しない苦しみを味わいながら、シード権を確保します。日本でも毎年とはいかないまでも優勝を続け、両国での活動をこなしていました。
1997年には、それが成果として現れます。「ビュイックオープン」でアメリカ最高位2位を確保し、日本においても「ヨネックスオープン広島」で国内通算25勝目をあげて永久シード権を獲得しました。また1999年は、メジャー「日本プロ」で尾崎3兄弟による熾烈な優勝争いを繰り広げます。最終3組に分かれてそれぞれプレーし、直道、将司、健夫というトップ3を独占する順位で見事優勝を手にしました。さらに同年、「日本オープン」も制したことから、史上5人目の日本メジャータイトル4冠を達成するとともに、自身2度目の賞金王も獲得します。その後も、2001年まで日本とアメリカを掛け持ちしながらも、8年間アメリカのシード権を守り通しました。
還暦となるも、日米シニアツアーのみならずレギュラーツアーも出場
50歳が目前にせまった2005年、尾崎直道は国内開幕第2戦、第3戦と連勝して存在感を見せ付けました。そして50歳を迎えると、チャンピオンズツアー(米PGAシニアツアー)を主戦場に選び、再びアメリカの地で戦いを始めます。2位を2度(うち1度はプレーオフで敗退)記録するも優勝には届きませんでした。
2012年からは国内シニアツアーにも本格的に参戦すると、いきなり2勝を上げて賞金王に輝きます。2014年は、レギュラーツアーとシニアツアーの両方に積極的に出場し、「日本プロゴルフシニア選手権」で久しぶりの優勝を飾りました。還暦を迎えても、ゴルフへの情熱は衰えることなく、レギュラーツアーにも出場してその名を轟かせています。