名前 | 林健太郎(ハヤシケンタロウ) |
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生年月日 | 1972年8月29日 |
国 | 日本 |
出身 | 東京都町田市 |
プロフィール | 大学時代はNo.1DFとして活躍。
1995年ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)に入団。同年日本代表に選ばれた。1997年1月天皇杯優勝。1998年9月期限付きで神戸ヴィッセルにレンタル移籍、1999年復帰。 再び古巣でレギュラーを奪い、1999年2ndステージ2位、2004年天皇杯制覇などに貢献。しかし2005年、J2降格が決まり、クラブから戦力外通告を受けて退団。 2006年からはヴァンフォーレ甲府に移籍。2007年に低迷してJ2降格。2009年、27試合に出場するも勝ち点1差でJ1昇格を逃し、同年現役引退。 2011年から東京大学運動会ア式蹴球部(サッカー部)のコーチに就任。2015年からは東京ユナイテッドFCにて、ヘッドコーチ兼スポーツディレクターを務める。 国際Aマッチ2試合出場 0得点。駒沢大学卒。181センチ、73キロ |
学生時代は、各年代の日本代表に選出されて大気の片鱗を見せる
林健太郎は東京都町田市に生まれ、小学生のころから山崎Zに所属してサッカーを始めます。その後、小山FCを経て、私立桐蔭学園高校へ進学しました。当時から、ユース代表に選出されるほど、実力は突出していましたが、全国高等学校サッカー選手権大会の出場はできません。しかし、駒澤大学時代は、全日本大学選抜に選出され全国制覇に後一歩というところまでたどり着きました。第43回全日本大学サッカー選手権大会に出場し、自身も大会優秀選手賞(DF)に輝きます。決勝まで駒を進めましたが、悔しいPK負けを喫し準優勝に終わりました。
黄金期のヴェルディに入団後、即レギュラーを奪い存在感を見せる
1995年、大学卒業後、ヴェルディ川崎(現在の東京ヴェルディ1969)へ入団します。当時のチームは、三浦和良やラモス瑠偉など多くのタレント選手を揃えてJリーグ連覇ならびにナビスコカップを3連覇とまさに黄金期にありました。しかし、新人の林健太郎は高いテクニックとセンスで、いきなりボランチのレギュラーを奪います。ラモスからも天才と言わしめるほどの大きな存在感を示し、リーグ戦43試合に出場しました。同年は、チャンピオンシップで敗れて年間順位は2位に終わりましたが、早くも日本代表にも選出されます。ルーキーらしからぬプレーで、新時代の到来を予感させました。
しかし、2年目の1996年から一気に出場機会を減らします。テクニックでは右に出るものがいない状況でしたが、運動量に乏しく、やる気があまり表に出ない選手でもありました。チームも一時期の黄金期から転落し、同年14試合出場に終わると、1997年は一桁の9試合出場に留まります。そして1998年は、チームがJ2降格を争う危機にも関わらず、シーズン途中にヴィッセル神戸へのレンタル移籍が決まりました。
レンタル移籍したヴィッセル神戸では、チームのJ1残留に貢献
前年にJリーグ昇格を果たしたヴィッセル神戸でしたが、悪夢の連敗中でした。翌年からJ2が創設されるため、J1残留を目指して建て直しが必要なタイミングで、林健太郎は加入します。新天地では主にMFとして7試合に出場し、2ndステージでの14位浮上に貢献しました。年間総合順位16位で、J1参入決定戦に臨み、コンサドーレ札幌との2試合にともに勝利して、J1残留を決めます。大事なゲームにも出場して大きな貢献をした林は、再びヴェルディへ戻りました。
ヴェルディで再ブレイクし、不動の中盤レギュラーとして活躍
一方、古巣のヴェルディ川崎も、1998年の2ndステージは17位と後退しており、1999年からは総監督に桐蔭学園時代の監督だった李国秀が着任しました。大きなリストラも敢行し、新チームとして生まれ変わりましたが、林健太郎はボランチの位置で司令塔として機能します。李総監督は、桐蔭時代の教え子だった米山篤志、山田卓也、小林慶行らを積極的に起用し、いきなり1stステージ2位とV字曲線で復活を遂げました。
かつてのヴェルディらしいパスサッカーが復活し、ベテラン北澤豪らとともにチームを牽引しました。その後再び不調の波をありながらも、2002年には2ndステージで4位、2003年シーズンは優勝争い、そして2004年には天皇杯を制し久しぶりのタイトルを手にします。林は、中盤のマエストロとして君臨し、PK職人の異名を取るなど、長らくレギュラーを務めました。
そして2005年、ヴェルディはブラジル全国選手権得点王のワシントンを獲得してさらなるステップアップを狙います。しかしチームはバランスを崩し、一気にJ2降格を争う立場となりました。何度も窮地を乗り越えてきたチームでしたが、J1残留は叶わず、名門チームがついにJ2降格となります。すでに30歳を過ぎていた林は、戦力外通告を受けて退団しました。そしてその人事に納得がいかない有力選手たちも退団し、ヴェルディの一つの大きな歴史が終焉を迎えます。以後、一度J1昇格を果たしましたが、2009年以降はJ2での戦いが続いています。
ヴァンフォーレ甲府で再出発を図り、モデルチェンジに成功
現役続行にこだわる林健太郎は、ヴァンフォーレ甲府監督の大木武から熱烈ラブコールを受けて入団します。奇しくも、古巣ヴェルディと入れ替わりでJ1昇格を果たした若いチームでした。そして自身のプレースタイルも大きくモデルチェンジします。かつては、センスは抜群だが守備をおろそかにする、まるで外国人選手のような評価を受けていましたが、1ボランチも務める走れる選手へと変貌していました。
しかし、J2から昇格してきたチームは、J1の厚い壁に苦しみます。2年目には18チーム中17位でJ2降格し、大木監督も退任しました。それでも林は、再びのJ1昇格を目指してチームに残留します。2009年も27試合に出場して、チームに貢献しましたが、勝ち点1差で涙を呑みました。同年をラストイヤーと意気込んで臨んでいた林はユニフォームを脱ぐ決意をします。まだまだ第一線でプレーできる余力を見せながら、ピッチを去りました。
有志たちによる引退試合後は、サッカー指導者に転身
2010年、「ヴァンフォーレ甲府 vs 林健太郎とゆかいな仲間達」が引退試合として開催されると、得意のPKを決めます。そして2011年からは指導者生活をスタートさせました。東京大学運動会ア式蹴球部(サッカー部)のコーチを務めると、2015年からは東京都社会人サッカーリーグ所属の東京ユナイテッドFCにて、ヘッドコーチ兼スポーツディレクターを務めています。