名前 | 森崎和幸(モリサキカズユキ) |
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生年月日 | 1981年5月9日 |
国 | 日本 |
出身 | 広島県 |
プロフィール | 少年時代から双子の弟・浩司とともにサッカー選手として活躍。広島市の矢野FC、矢野中を経て、サンフレッチェ・ユースに入団、ボランチとして活躍。
1999年、高校3年時にJリーグ、天皇杯で活躍。2000年Jリーグ史上初の双子選手としてトップチームに昇格。同年Jリーグ新人王を受賞。U-18代表候補、U-19代表、U-20代表にも選ばれる。2003年、2008年はともにJ2でのプレーとなるも、ともに1年でJ1復帰に貢献。 また2006年から難病・慢性疲労症候群に襲われて、何度も長期離脱を経験。しかし監督、チームメイトの理解、支援によりそのたびに克服して復活。2012-2013、2015年で3度優勝の立役者として活躍。2016年、チームとしては初のJ1 400試合出場達成。174センチ、70キロ |
クラブ史上初の高校生Jリーガーとして出場し、天皇杯決勝へ導く
森崎和幸は、二卵性双生児の弟・浩司とともに、1981年広島県で生を受けます。幼い頃から、野球好きでキャッチボールをよくやっていました。しかし小学2年生時、浩司とともに「矢野FC」に入りサッカーを始めます。二人はともに攻撃的MFとして、才能が発揮し驚異的な得点力を披露しました。そして矢野中学校時代から、サンフレッチェ広島ユースに入団します。木村孝洋の指導を受けると、高校2年生からボランチに転向して初めて弟と異なるポジションとなりましたが、将来の広島を支える二人として期待されました。
高校3年になると2種登録選手となり、さらに広島主力メンバーの故障などもあっていきなりJリーグの試合出場という機会が訪れます。広島史上初の高校生Jリーガーは、当初こそ緊張感から普段の動きができませんでしたが、徐々に慣れるとボランチの位置から試合を支配しました。当時のトムソン監督にも才能を認められ、以後のリーグ戦2試合の出場を許され、その後の天皇杯では主役となります。4回戦から3試合連続でアシストを記録して、サンフレッチェ広島の決勝進出の原動力として大きく貢献しました。
双子揃ってJリーガーとなると、レギュラー出場し新人王獲得
2000年、森崎和幸・浩司はともにトップチームに昇格し、佐藤勇人/佐藤寿人兄弟と共に、Jリーグ史上初の双子選手となりました。リーグ2戦目から、早くも先発出場の機会が訪れ、類まれなセンスを披露していきます。森崎の非凡さはボールのキープ力にあり、トムソン監督が理想とする、中盤からパスをまわして攻撃する中心人物となりました。視野も広く、ピッチ上の監督としてイレブンを生かしていきます。同年の広島順位は10位、11位で年間総合も11位と上位進出できませんでしたが、森崎はJリーグ新人王、日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞しました。
世代別日本代表選出されるも、アテネ五輪は本戦に出られず
クラブでの活躍は、世代別代表選出にもつながり、森崎和幸は弟・浩司や同級生のチームメイト駒野友一らとともにワールドユース代表としても出場します。浩司は控え中心でしたが、和幸はU-21日本代表のキャプテンを務めるなど、中心的存在となりました。しかしボランチのポジションに、新勢力が台頭し始めると、徐々に代表での出番を失います。アテネ五輪出場を目指すU-22日本代表にも選出されましたが、最終予選以降召集が見送られました。その間、浩司はアテネ五輪予選でも貢献し、左アウトサイドのレギュラーを奪います。本戦でも日本は予選リーグで敗れましたが、2試合に出場しました。
難病・慢性疲労症候群に襲われて、選手生命の危機に遭う
サンフレッチェ広島では、兄弟揃って出場することが多くなり、2003年はJ2降格を経験するも、1年でのJ1復帰を成し遂げました。2005年には、森崎和幸がキャプテンに就任し、リーグ7位とJ1でも好順位をキープします。ところが、2006年開幕すると、慢性疲労症候群という難病に襲われ長期離脱を余儀なくされました。強度の疲労感や倦怠感が継続する病気であり、症状を引き起こす原因は不明と言われています。森崎の場合は精神状態が病気に及ぼす影響が大きく、以前にも症状が出ていましたが、練習にも参加できないのは初めてでした。
2ヶ月近くも身体を動かせない中、チームの監督はペトロヴィッチに代わっていました。クビを切られてもおかしくない状況にも関わらず、ペトロヴィッチは森崎を信頼し、練習参加、不参加などを自由に選択できる権利を与えます。新指揮官は、慢性疲労症候群を患った選手と一緒に戦った経験があり免疫があったのでした。しかし、自身の存在価値を認めてもらったことは、回復に効果的な作用をもたらし、後に戦線復帰を果たします。
その後、再びJ2降格したチームを、1年でのJ1昇格に貢献する活躍を見せました。ところが、完治していない病気はその後何度も顔を出します。2度目、3度目と発症するたびに、サッカーを辞めることが脳裏をよぎりました。しかし、それを食い止めたのはやはりチームでした。ペトロヴィッチ退任後は、ともにプレーした生え抜きの森保一が監督を務め、同様に森崎に理解を示します。そして何よりチームメイトが森崎の復帰を願っていました。
難病を克服すると、クラブ史上初の優勝そして連覇を達成
世界中で苦しみ、寝たきりとなる人もいる中、森崎和幸は難病を克服して、何度もピッチに復帰しました。2011年から、再び中盤のレギュラーとして君臨すると、2012年チームは念願の初優勝を実現します。後半戦に首位仙台を捉えると、そのまま譲らず1試合を残して、優勝が決まりました。Jリーグ元年から加盟していたオリジナル10の中でサンフレッチェが最後でしたが、ついに初タイトルを手にしました。
そしてこの勢いは翌年にも持ち越されます。森崎は前年同様、ボランチの位置からチームをコントロールすると前半最終戦で首位に導きました。その後横浜、鹿島と三つ巴の争いとなり最終節までもつれ込みましたが、逆転で見事な連覇を達成します。森崎は、連覇を達成した2シーズン合計68試合中の66試合に出場し、完全復活を見せるとともに大きな原動力として働きました。
チームの象徴として、クラブ史上初のJ1通算400試合出場達成
3連覇を狙った2014年は、AFCチャンピオンズリーグ2014出場など過密日程を強いられ、守備陣が崩壊してリーグ8位に終わりました。しかし、2015年、すぐさま立て直します。1stステージ3位と復調すると、2ndステージは最終節で首位、そして年間勝ち点トップも奪います。チャンピオンシップも制したサンフレッチェ広島は、ここ4年で3度の優勝とまさに黄金時代となりました。その中心には一度も日本A代表に選出された経験のない森崎がいます。2016年シーズンで、弟・浩司はユニフォームを脱ぎましたが、自身は広島の選手として初めてJ1通算400試合出場を達成しました。