三宮恵利子について
名前 | 三宮恵利子 |
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生年月日 | 1974年9月19日 |
国 | 日本 |
出身 | 北海道釧路市 |
プロフィール | 新川小1年からアイスホッケーを始め、4年のときスピードスケートに転向。釧路星園高3年のインターハイ2位、平成5年富士急入社。6年1000メートルで優勝2回、2位2回。7年全日本スプリント1000メートルで1分24秒42をマークし優勝。8年全日本スプリント総合4位。9年11月W杯カルガリー大会1000メートルで1分16秒98の日本新記録をマーク。10年長野五輪1000メートルで8位入賞、500メートルは11位。同年世界種目別選手権1000メートル14位。同年8月五輪オーバル・サマー・クラシック500メートル優勝。12月全日本スプリント総合優勝。11年10月全日本距離別選手権500メートル優勝、1000メートルでは国内最高の1分18秒01で優勝。同年11月W杯ベルリン大会500、1000メートルを制し、W杯初優勝。12年世界スプリント総合4位。同年11月全日本距離別選手権500メートル3連覇。12月全日本スプリントで全4レースを制し、3連覇。13年世界スプリントでは日本女子最高の総合2位。ソルトレイクシティ五輪代表に内定している。163センチ、58キロ。富士急行所属
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ホッケーから始まったスケート人生
後にスピードスケートの世界で大活躍する三宮恵利子ですが、最初に始めたウインタースポーツはなんとホッケーでした。荒々しいホッケーに女子選手ながら参戦した三宮ですが、その頃からスケートの技術は別格。早すぎるスケートはチームでもトップクラスの実力でした。
そのスピードを生かすべく、小学4年生のころにスケートへと転向。すると眠っていた才能が開花し、中学生になると三宮はなんとスピードスケートで全国優勝。たった5年で全国の中学生たちの頂点に立ったという天性の素質に誰もが驚かされることになりました。
高校進学時、三宮は数々の高校の中から地元釧路市にあった女子高、釧路星園へ進学します。この高校も北海道内ではスピードスケートの名門高校として知られ、三宮がやってくる前までは長野オリンピックの銅メダリストである岡崎朋美が在籍していたことでも知られています。
高校の練習は過酷なもので、なおかつ北海道にはスピードスケートの名門校として名高い白樺学園の存在もあり、三宮はなかなか上位に食い込むことができませんでしたが、その中で彼女のハイライトとなったのが高校3年時のインターハイ。ここで三宮は全国2位に入って、その実力を満天下のもとに示しました。
そして高校卒業後、三宮は実業団選手としての活動を望み、93年に富士急へ入社。スピードスケート選手としての第一歩を踏み出しました。
届かなかった長野五輪のメダル
富士急に入社した三宮恵利子は実業団選手としてほぼ毎日練習漬けの日々を送っていました。彼女が入社した翌年にはリメハンメルオリンピックが迫っていましたが、入社間もなく、時期尚早ということもありこの大会をパスした三宮は国内の大会をはじめ、まずは実績を残していくことに留意していきました。
そんな中で迎えた94年、まずは彼女の得意分野である1000m戦で2度の優勝を飾り、2位も2回と言う大活躍。これで1000m女子には三ノ宮ありを強烈に印象付けました。その後は95年に全日本スプリント1000mで1分24秒42という好タイムを記録して優勝。その実力の高さから、3年後の長野オリンピックへの出場を期待されるようになりました。
年々活躍していった三宮ですが、96年は全日本スプリント総合4位がハイライトとやや停滞。しかし、97年は前年のうっ憤を晴らすかのよう滑りで11月に行われたワールドカップ・カルガリー大会の女子1000mで1分16秒98という日本新記録をマーク。この頃、彼女が所属する富士通には高校の先輩にあたる岡崎朋美も在籍していたため、2選手揃ってのメダル獲得への期待が否が応でも高まっていくことになりました。
迎えた長野オリンピック。三宮は先輩である岡崎とともに日本代表選手に選出され、500mと1000mの2つの競技に出場。数々の活躍を見せていた三宮ですが、岡崎が銅メダルを獲得した500mは11位、そして三宮が得意とする1000mでは8位入賞にとどまりました。
1000mで日本女子新記録を樹立!
長野オリンピックは振るわなかった三宮恵利子ですが、ひるむことなく次の大会へと出場。世界種目別選手権で1000m戦に出場した三宮ですが、ここでも14位に終わります。しかし8月に行われたオリンピック・オーバル・サマー・クラシック500mでは見事に優勝。これで息を吹き返したのか、12月に行われた全日本スプリントでも総合優勝を果たしました。
翌99年も三宮の勢いは留まることなく、10月に日本距離別選手権で500m優勝、これだけでも十分すごいのですが、この大会中最大のハイライトとなったのは彼女の本職である1000mでした。
この大会の決勝で三宮が叩き出した時計、1分18秒01は国内最高タイムと言う圧倒的なものでした。この勢いに乗ったまま、三宮はワールドカップ・ベルリン大会に出場。ここでも500mと1000mの二冠を達成して見事にワールドカップ初優勝を飾りました。
ソルトレイクシティ五輪後に引退
1000mのレコードタイムを打ち立てた三宮恵利子。次なる目標はもちろん、オリンピックでのメダル。02年のソルトレイクシティオリンピックが年齢的に最後のチャンスと言える大会だけにその気合の入り方から違っていました。
まずは00年の世界スプリント。ここを総合4位で折り返した三宮は続いて行われた全日本距離別選手権で500mを優勝してV3を達成。さらに12月には全日本スプリントで行われた4レース全てを制するなど、国内では無敵の強さを見せるようになりました。
オリンピックのために落とせない01年、三宮は世界スプリントで日本女子最高記録となる総合2位に入り、当然のようにソルトレイクシティオリンピックの切符を掴みます。27歳のラストチャンスとなるオリンピックのメダルに全力をかけました。
そうして迎えたソルトレイクシティオリンピック。三宮は前回と同じく500mと1000mの二種目に出場しましたが、結果は500m11位、1000mでまさかの17位に終わり、残念ながら、メダルには手が届きませんでした。
しかし、レース後の三宮の表情はどこか吹っ切れた様子でやり切ったという思いが強かったことを現します。この大会終了後、三宮は現役を引退。その後はスケート教室を開催する一方でレーシングドライバーとしての活動を見せるなどマルチな才能を発揮しています。