曖昧な「横文字役職」が多い日本スポーツ界

日本で教育を受け、いわゆる「部活」を通じてスポーツをやっていると横文字の役職について疑問に思うことは少ないだろう。著者も14歳のときにラグビー王国ニュージーランドへ移住するまで、あまり疑問に思わなかった。
 
現地校に入ったとき、最初にわからなかったことが「監督って英語で何て言うの?」という疑問。ニュージーランドでは、ヘッドコーチを監督と訳す。当時、体育の担当教員を「サッカー部のヘッドコーチだ」と紹介されたとき、「2番目にエラい人なんだ」と勘違いしたのを鮮明に覚えている。
 
英国プレミアリーグの2016-17シーズン上位5クラブを参考に見てみると、チェルシー(1位)のコンテ監督は「ヘッドコーチ」、トッテナム(2位)のポチェティーノ監督は「マネージャー」、マンチェスター・シティ(3位)のグアルディオラ監督は「マネージャー」、リヴァプール(4位)クロップ監督は「マネージャー」そしてアーセナル(5位)のベンゲル監督も「マネージャー」と表記されている。
 
ここで特筆しておきたいことは、監督という職位はクラブによって呼び方こそ違うがヘッドコーチかマネージャーのどちらかであることだ。
 
では、何が違うのか? 英語におけるヘッドコーチとは、普段の練習や試合の責任者のことを指す。つまり「現場の最高責任者」のことだ。一方、マネージャーという職位は一般的にチームをマネジメントする運営統括の責任者であり、コーチ陣の起用やチーム強化費の管理、スポンサーとの折衝なども業務としてカバーする立場の人間を指す。マンチェスター・シティのグアルディオラ監督やアーセナルのベンゲル監督は、クラブ経営のマネジメントスタッフとしても重役を担っているということがわかる。
 
同じ英語圏だが、米国ではチームのマネジメントスタッフをディレクターと呼ぶことが多い。例えば、大学スポーツ界にはA.D.(アスレティック・ディレクター)と呼ばれる人間がチームを統括し、監督やコーチ陣たちの選定や予算管理を担う権限を持っている。メジャーリーグサッカーのプロクラブスタッフでもエグゼクティブ・ディレクター等の役職が責任者とされ、様々な立場で現場の最高責任者(監督)とは一線を置かれているのだ。

昔の運動部のマネージャーは「マネジメントをする人」であった

ラグビー日本代表の監督としてチームを率いた、エディー・ジョーンズ氏(現イングランド代表監督)。彼は、日本がラグビーW杯2015で南アフリカに勝利する前から、たびたび日本スポーツ界の『曖昧な役職』を指摘していた。
 
日本スポーツ界で古くからヘッドコーチという役職を取り入れているのはプロ野球であり、現在も監督の下にヘッドコーチを採用しているのは「巨人」「ヤクルト」「広島」「阪神」「オリックス」「ソフトバンク」。歴史的にも(今でも)プロ野球は報道量が異常に多いため、その後の国内におけるトップスポーツにヘッドコーチが次々と誕生しているのではないかと考えられる。
 
プロ野球界を反面教師に成長してきたJリーグでも、ヘッドコーチという役職(監督ではない職位)を持つコーチがJ1クラブでも半数ほど存在している。また“紳士のスポーツ”と強調し、英国発祥の競技文化を重んじる傾向が強いラグビーですら、国内のラグビー・トップリーグに所属する「パナソニック」「ヤマハ」「リコー」は監督とヘッドコーチと呼ばれる役職者が二人いるのだ。
 
日本では何気なく「監督」と「ヘッドコーチ」、そして「マネージャー」という役職が揃っている。ついでに言うと、実はもう一つ「主務」という役職も存在している。
 
本来、マネージャーの業務は日本語でいう主務となるが、日本では「主務=男子」「マネージャー=女子」みたいな区切り方をされている。大学運動部ではよく見られるのが主務とマネージャーの混在。この場合、少なくとも主務がマネジメントを担う役職であり、マネージャーは完全に雑用係であるケースが多い。となると、いったい日本では“何気なくつけてしまった役職”がいくつあるのだろうか。むしろ、どれが一番違和感アリなのか。それは、おそらく誰もが気付いていると思うが「マネージャー」なのである。

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長い歴史の中で変節したマネージャーの意味合い

部活におけるマネージャー誕生の歴史を調べてみると、1950年前後にはすでに「マネージャー」という言葉が存在していた。しかも女子ではなく、男子であった。
 
この時代のマネージャーに求められた重要な資質としては、「人徳」「社交性」などがあげられる。特に、教師とクラブ員の調整役を果たすコーチ的役目を担っていたのだ(北海学園大学 関教授、戦後の学校スポーツ胎動)。マネージャーの仕事はグランド調整、整備や飲料水の用意、試合の記録をはじめとした雑用に加えて「対外試合の交渉」「部の予算管理」と「学外の資金調達」といった業務を担っていた。
 
看過することのできない点は、前述したように海外では監督と一緒にトレーニングメニューや収支管理、チームの営業(外部からのスポンサー獲得、資金調達)、マーケティングを担当するのが「マネージャー」であったこと。つまり、過去の日本に存在したマネージャーは、監督の右腕となる明白なマネジメントスタッフだったのだ。
 
当時の資料によれば、各運動部には潤沢な資金もないため自治能力と資金調達力のふたつのマネジメントが機能していたことがわかる。部活動は今でも課外活動(今でも多くの人は部活が教育課程内だと思っているようだが)となっており、自主性を重んじる精神が引き継がれているが、当時、生徒たちは限られた経営資源「ヒト、モノ、カネ」を効率良くマネジメントすることを求められていた。

「監督」に全権を与えすぎた日本の部活動

監督とマネージャーの間に距離感を生んだ原因には、日本のスポーツ界が“勝利至上主義”になったことだ。
 
戦後間もない頃、日本の部活動には全国大会がなかった。対外試合の規制がかかっていたからだ。しかし1952年ヘルシンキ五輪で日本代表が惨敗したことを受け、1964年に東京でオリンピックが開催されるため、我が国では対外試合の規制をどんどん緩和し、各学校でエリート・アスリートを育成するための環境が整備されていった。その後、スポーツが大きくメディアと絡む歴史を歩んでいく過程で、全国大会が広告価値を高めていき、学校側もすべての権限を監督に与えてしまった。
 
“勝利至上主義”という言葉は古くからあるように思うが、文部省(現 文科省)が問題意識を持ってこの言葉を使うまで約55年かかっている。早稲田大学の中澤篤史准教授は、部活が持つ『自主性』とは魅力的だが危険であると述べており、自主性と言われても、実際には監督から強制されていることが多すぎるにも関わらず『自主性にごまかされる』という実態を指摘している。
 
また、監督自身が管理されない環境が平然と成立してしまったのも最近の話である。「中学校・高等学校における運動部の指導について、文部省初等中等教育局(1957)」の資料によると、学校スポーツの組織運営者として「校長」と「運動部長」という役職者が位置づけられていたのだ。
 
運動部長の業務は、組織の下に配置されている各クラブの教師(監督者)たちのバランスを調整する。公平性を保つための「行事や活動の調整」「特定の部や選手たちが施設を独占しないよう管理」が任され、校長との間では「運動部の技術的なコーチ委嘱」「対外試合基準の厳守」など。「部活動は課外活動だから」という言葉で従来の組織体制からどんどん都合よく改変され、いつの間にか運動部長という役職も学校から消えていった。
 
結果、本来監督と二人三脚で組織の発展を推進するパートナーであったマネージャーが不要となり、全権監督はマネージャーを「雑用担当」にさせたのだ。

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雑用担当がマネージャーと呼ばれるのはおかしい

某大手人材会社の大学担当者に聞いてみると、いわゆる運動部のマネージャーは企業側からすると「体育会枠での採用とは考えない」企業が多いのだという。また「マネージャー」という職務で有名な芸能界では、体育会運動部のマネージャーが採用に有利なのかと問い合わせたところ「(芸能界の)マネージャーはタレントを支える雑用係ではない」と言われた。

つまり、体育会運動部のマネージャーが「マネージャーをやってきました」と胸を張ってアピールするものの、本来の意味合いであるマネジメントを実践した大学生として評価をされるわけではない。日本の体育会運動部所属のマネージャーが、今まで尋常じゃない辛いハードなスケジュールに耐えて、バイトもせず捧げてきた膨大な時間が報われず、これでは、彼ら彼女たちがかわいそうだ。

しかも、現代社会の「働き方改革」とはほど遠い位置にいて、労働環境が整備されていないし(例えば選手は入寮できるがマネージャーは自宅通いが一般的)、主務ほど仕事が任されている感じが味わえないのに帰宅時間が遅く拘束時間が長い。何よりも失われているは本業の「学習時間」。プロでないにもかかわらず、部活の雑用は選手にやらせないチームが多く、マネージャーたちも「私たちが支えないと!」と率先して雑用に励み、学生の本分である学業を疎かにしながら“部活の自主性”がはき違えられていく。

「雑用係」というイメージを定着させたのは今の監督たち

日本では「曖昧さ」が文化でもある。この曖昧な表現ができてしまう日本人にとって英語は苦戦する。そのせいで、日本のスポーツ界は外からいろいろなものを輸入したときに深く意味を考えずにオリジナル版をつくりすぎた。

さらに“変化を拒む歪な組織”がスポーツ界には乱立している。スポーツの本質をやっと理解し始め、日本体育協会が「日本スポーツ協会」へと名称変更を検討するようになったのも設立されて(1911年/明治44)から実に100年以上も経ってからだ。しかし、選手たちがどんどん世界へ羽ばたいているこのご時世、自分たちだけのルールだけではもう通用しない。たかが役職名、されど役職名。まずは本稿で取り上げた「マネージャー」の職名は実務に相応する統一された名称に変更するべきであろう。明らかに世界基準と乖離している。

スポーツ界と関係ないところでは、男女雇用均等法の施行によりスチュワーデスがキャビンアテンダント(CA)となり、看護婦が看護師、保母さんが保育士へと変更された。世間のイメージも悪く敬遠されていた介護補助員という名称がケアマネージャーと変わったとたんに志す人が増えたという。バックダンサーと呼ばれていた人たちが今ではパフォーマーと呼ばれ、生き生きとしている。どれも時代に合わせた変化を遂げている。

大学スポーツ界では、日本版NCAAが創設され、今まで不透明であった会計処理や強化方針のルール化によって本来のマネージャー職に相応しい業務が担えることとなり、チームの雑用係から真のマネジメントスタッフへと変貌するかもしれない。そもそも「マネージャー=雑用係」だと世間的にイメージを定着させてしまったのは、チームを指導する監督たちである。マネージャーたちを雑用係として扱う監督たちが少しでも変わるきっかけとなるのであれば、改めて日本版NCAAが早く誕生することを期待したい。

<了>

収益は浦和の約7倍! ドルトムントの精緻なブランドマネジメント

2017年7月15日に浦和レッズと対戦する、ドイツの名門ボルシア・ドルトムント。日本代表MF香川真司選手が所属し、バイエルン・ミュンヘンと並びドイツを代表するクラブの一つとしてサッカーファンにはおなじみです。そんなドルトムントが、わずか10年前に倒産の危機にあり、ブランドコントロールに本格的に乗り出したことはあまり知られていないでしょう。紐解くと、そこには日本のプロスポーツが参考にすべき事例が多々含まれていました。帝京大学経済学部准教授であり、プロクリックスでもある大山高氏(スポーツ科学博士)に解説を依頼しました。

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大学スポーツは“無法地帯”か。日本版NCAAが絶対に必要な理由。

文部科学省が、国内の大学スポーツの関連団体を統括する「日本版NCAA」を2018年度中に創設する方針を発表したことはすでにお伝えしたとおり。日本に馴染みのない組織だけに、その必要性がどの程度のものなのか、まだわからない読者の方も多いのではないだろうか。今回は、PROCRIXであり帝京大学准教授(スポーツ科学博士)である大山高氏に、大学で教鞭をとる人間の立場からみた必要性を語っていただいた。

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斜陽国家・日本において、スポーツ界は何をすべきか? 特別寄稿:岡部恭英

大山 高

帝京大学准教授(スポーツ科学博士)。大学卒業後に三洋電機株式会社、ヴィッセル神戸、博報堂/博報堂DYメディアパートナーズを経て2014年より現職。プロクラブと企業スポーツの両クラブで宣伝広報業務やパートナーシップ事業に従事。三洋電機時代は「オグシオ(小椋久美子・潮田玲子ペア」らが所属していたバドミントンチームとラグビー部のプロモーションを担当。近著に『Jリーグが追求する「地域密着型クラブ経営」が未来にもたらすもの』(青娥書房)。